デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 4

繰り返し述べたように、 デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない。

但し、デカルトの問題性を的確に摑むことはそれ自体非常に難しいことである。

実際、デカルト研究者--彼らは基本的に哲学史家であって哲学者ではない--からして、デカルトの問題性を的確に摑めていない。

 

そしてデカルトの問題性が掴めていない故に、メルロ=ポンティに好意的なデカルト研究者でさえ、メルロ=ポンティがまるで分かっていない。

例えばデカルト研究の権威であった故ロディス・レヴィスはその著『デカルトと合理主義』の序で、メルロ=ポンティの『シーニュ』から合理主義に関する二つの文章を引用しているが、この引用はメルロ=ポンティに対する無理解をよく表している。

 

そして悲しいかな、研究業績を作るために翻訳・紹介に勤しむ我が国の研究者は、ロディス・レヴィスによる件の引用を無断でそのまま自分の論文の中で引用している(これは一種の剽窃であろう)のである。

こうした「哲学に対する責任感」をまったく欠いた者、即ち「哲学とは何か」という根本的な問いを問うことのない者に、デカルトの問題性を摑めるはずはなく、従ってメルロ=ポンティが分かるわけがない。