デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない 5

デカルト研究者でさえ、デカルトの問題性を摑めていない。

否、デカルト研究者はデカルト研究者である故に、デカルトの問題性が掴めないのである。

本ブログの最初の記事(2016.9.12)でも関連することを述べたが、

哲学研究は学問的であろうとすればするほど、皮肉にも、哲学そのものから乖離するのである。

 

デカルトは『省察』の「読者への序言」で、

「自分と共に本気で(真剣に)省察する」ことを読者に求めているが、

デカルト研究者に欠けているのは、まさにこの「真剣さ」である。

 

別の言い方をすると、

デカルトは当然、哲学に対して責任を持っている(それ故に哲学者なのである)が、

デカルト研究者はそうではない。哲学に対する責任感がないのである。

そうであるからこそ、例えば、デカルトについての本を出した後に、平気で、次にスピノザについての本を出したりするのである。

 

更に別の言い方をしよう。

デカルトにとっては哲学は「理論」ではないが、

デカルト研究者にとっては哲学は「理論」である。 

しかし哲学は「理論」であるということは、哲学は「人」そのものから切り離されるということであり、

つまり、哲学は責任感の対象にはならないということなのである。