デカルトの決意--(1) 森の中の旅人

デカルトは旅を住処とする生涯を送った哲学者であるが、『方法序説』第三部において彼は森の中で道に迷った旅人について次のように語っている。――迷子になった旅人はあっちに行ったりこっちに行ったり右往左往してはならず、ましてや一箇所に留まってはならない。そうではなくて、絶えず同じ方向にできるだけまっすぐに歩まなければならないのであり、少々の理由で方向を変えてはならない。そのようにすれば、望む場所ではないとしても、少なくとも森の真ん中よりはましな場所に行き着くことができるからである、と。

♦ 今から400年ほど前のヨーロッパの、樹木が鬱蒼と生い茂った森の中を想像してみよう。ぐずぐずしていると日が暮れて身の危険にさらされる恐れがある。どちらに行くべきかじっくり検討している暇はない。従って十分な理由づけができなくても進む方向を決めなければならない。そして決めた方向を最後まで貫き通さなければならない。そうしなければ、いつまで経っても森の外に出ることはできないのである。

♦ この旅人の例によってデカルトが言いたいことは、行動においては優柔不断であってはならず断固とし毅然としていなければならないということ、そして如何に疑わしい意見であっても、一度決めた以上はそれが極めて確かなものである場合と同様に変わらぬ態度でそれに従わなければならないということである。23歳のデカルトはこのことを己れの格律の一つと定めた。(因みに、確乎とした決意ができていれば、決して後悔は生じないということをデカルトは付け加えている。)

♦ しかし、自分の選んだ道が正しいかどうか疑わしいのに、どうして決然と歩むことができるのであろうか。どうして疑いつつも信じることができるのであろうか。確かに疑いの可能性を黙殺する頑固一徹な人はいる。あるいは自分の意見を吟味し疑ってみる懐の深さを持たない人はいる。しかしデカルトはもちろん、疑いの可能性を排斥するこうした頑迷固陋や盲信のことを言っているのでない。

♦ では、自分の選んだ道(自分の意見)が疑わしいものであることを自覚していながら、どうして半信半疑にならずに決然と振る舞うことができるのであろうか。それはこの世に生きている限り、絶対に間違いのない決断(選択)はあり得ないということを、心底悟っているからである。『省察』の末尾では次のように語られている。――実生活の必要は猶予を許さないので、状況を入念に吟味した上で判断するというわけにはゆかない。従って、人間の生は個別的なことに関しては誤りに陥り易いということを告白しなければならないのであり、つまりは、我々の本性(ほんせい)の弱さを承認しなければならないのである、と。

♦ 「我々の本性の弱さを承認しなければならない」ということ、これは悲観ではない。また諦念でもない。更にまた「人間だもの、神様でも仏様でもないんだから」という慰撫でもない。デカルトは人間の本性の弱さを仕方なく認めるのではなくて、積極的に認めるのである。心底納得して認めるのである。要するに人間の本性の弱さを宿命と看做すのである。ということは、つまりは、自分の選択を宿命と看做すということであり、更に言えば天意と看做すということである。そして自分の選択は宿命であり天意であるならば、それは自分を超えた必然であり、選択でありながら選択ではない。

♦ 選択でないならば、後悔というものはあり得ない。後悔というのは、他にもっと良い選択肢があったのにと悔やむことなのである。決意のできない者、意志的に生きることのできない者は、しばしば悔やむ者であり、その者にとっては幸福とはいわゆるラッキーということに過ぎない。逆説的に聞こえるかもしれないが、己れを超えた必然に従う時、即ち為すべきことを為していると思える時にこそ、人は自由と幸福を感じるのである。そうではないであろうか。(続く)