西部邁氏の最後の言葉

♦ 引き続きデカルトの決意(2)として、生き方の芯を成す決意に関して考察を試みる予定であるが、その前に、先日亡くなられた西部邁氏のことを少し考えておきたい。といっても、私は昔から氏に関心があったわけではない。わりと最近になって『生と死:その非凡なる平凡』など3冊ほどの著書を読み、またMXテレビの番組をこの何年か観ただけである。ただ、個々の主張内容のことはさておき、胡散臭い口先人間が多い知識人たちの中にあって、世間に嫌われることを厭わない稀有な人物として、また思考と人生とが不可分になっている稀代の人物として、一目置いている。

MXテレビの「西部邁ゼミナール」の最終回は、「西部邁先生の生前最後の言葉」というタイトルを付けられて1月27日に放送された。ここで吟味したいのは、この最終回の最後の部分である。西部氏は次のようなことを言った。――どうせ死ぬんだからデタラメな人生を送ろうかという考え方と、どうせ一回の人生だから自分でまあまあ納得できる人生にしようかという考え方の二つがあるが、自分のことを振り返ると、不思議なことに人間は後者の方を選ぶものなのである、と。――では、「デタラメな人生」ではない、「自分でまあまあ納得できる人生」とはどのような人生なのか? 

♦ 放送はここで一度区切りが入り、そのあと聞き手が、「人間は生きることそれ自体にではなく、より良く生きることにのみ本格的な関心を持つ奇妙な動物である」というオルテガの言葉を投げかけた。すると、西部氏は次のように応じた。――「より良く」に関心を持つのは、本当に人間だけである。ただ、「より良く」がこれまた難しい。宗教者なら簡単であって、神だ仏だと言っていればよい。しかし自分は宗教者ではない。宗教には大いに関心があるが宗教を信じたことは一秒たりともない。けどしかし、〔生の〕より良い規準・規範〔=模範〕があるはずだ。確かに一生かかっても「これですよ」と分かりやすくそれを示すことはできない。けれども、それを求めて、しゃべって書いてしゃべって書いてしてきた。ここまできて本当に幸いなのは、死ねることである。あと千年同じことをやれと言われても・・・ 。絶対に神や仏には近づけない。近づけば近づくほど神と仏は遠のいていくのである、と。

♦ では、「神と仏は近づけば近づくほど遠のいていく」とはどういうことなのであろうか? それは要するに、生のより良い規準・規範を〈求める〉営みには際限がないということであろう。人々に欠けているのはそのことの自覚であり、日本社会の愚かしい状態の原因もそうした無自覚にあると、氏は見ているようである。私はここでソクラテスのことを想い起こす。ソクラテスは自分には善美に関することは分からないと言い、更に、世の識者たちと違って自分はそれが分からないことを自覚していると言った。実は、善美というのは、それは分からないということが分かる時にこそ、本当に分かるものなのであり、然るべき探求・探究が為され得るものなのである。が、それにしても、分からないということを悟るのは非常に難しい。

♦ さて、話を戻して、西部氏の言う「自分でまあまあ納得できる人生」とはどのような人生なのか。その答えは以上の話で示されていると思う。