デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その3

★ ところで、財産や名誉はともかくとして、どうして知力や知識はそれを所有する人に「本当に」属するのではないのであろうか。どうして優れた知力や豊かな知識は自尊心を抱く「正当な」理由ではないのであろうか。デカルトの言うことはおかしいのではないであろうか。――否、そうではない。知力や知識といったものは善用もできれば悪用もできるものであるが、そう考えてみると、知力や知識そのものではなくて、それらを善用したり悪用したりするようにさせるもの、それこそが当人に「本当に」属するものなのではないであろうか。然り。そうなのである。従って、知力や知識やその他諸々は自己を敬う「正当な」理由ではないのであり、それらを理由に自分は偉いと思うのは不当な自惚れなのである。

★ では、知力や知識を善用したり悪用したりするようにさせるものとは一体何なのであろうか。それは意志である。知力や知識が善用されるか悪用されるかを決めるのは意志なのである。しかし意志それ自身も善用したり悪用したりすることができるのではないであろうか。その通りである。では、意志それ自身の善用・悪用を決定するものは何なのであろうか。実はそれも意志なのである(デカルトはそうはっきりとは述べていないが)。意志自身が意志を善用するか悪用するかを決めるのである。意志が意志自身を決定するのである。

★ しかし、意志をして(意志自身の善悪に関して)自己決定させるものは何なのであろうか。デカルトはそのことについてはまったく語っていない。しかし私にとってはそれは最も重要な問題なのである。この問題には後で改めて立ち返ることにして、差し当たり確認しておきたいことは、「本当に」自分に属するのは(知力や知識ではなく、ましてや財産や名誉ではなくて)意志をどう用いるかという意志の用い方であり、それのみであるということ、従って人が己れを尊敬する「正当な」理由はただ一つ、意志を善く用いようという意志――決意――のみであるということである。(続く)