デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その5  

 

♦ 久しぶりに池田晶子(1960-2007)の本を開いてみた。

「学内政治や同僚の悪口に飽きない方々は、驚きを所有せずに哲学を生業(なりわい)としている方と思って、皆さん、まず間違いありません。「悪い」と言っているのではない、「好かない」と言っているのだ。・・・哲学することが生き方を規定しないような哲学の仕方は、少なくとも私にはちっとも面白いと思われない。」(『考える人』)

池田氏と同じく私にも「ちっとも面白いと思われない」。というより、私に言わせれば、そもそも哲学することは生き方を規定するような仕方でしかできないのである。生に対する感触を持たず、「生の吟味」(ソクラテス)を怠る者が、どうして哲学することができるのであろうか。「魂の世話」を怠り、嘘をつくことを何とも感じない人間が、どうして真理を探究することなどできるのであろうか。

♦ さて、デカルトの言う「高邁」は、人間をして、正当に自分を尊敬し得る極点にまで自分を尊敬するようにさせるものなのであるが、この自尊は他人を蔑視させるものではない。それどころか、他人への蔑視を妨げるものである。それはどういうことなのか。――この問題に入る前に、高邁の定義をもう少し見ておかなければならない。

♦ 『情念論』153節によると、高邁な人とは、

  1. 意志を善く用いるか悪く用いるかということのみが、人が褒められたり咎められたりする理由でなければならないということを認識し、
  2. 自分の意志を善く用いようという〈確乎不変の決意〉を自分自身の内に感じる(sentir)、

そのような人なのであるが、b. に注目して言うと、高邁とは自分自身の内にある、自分の意志を善く用いようという〈確乎不変の決意〉に対する“sentiment”――「驚き」「尊敬」の感情――なのである。つまり高邁な人は、自分自身の内にある――しかも自分を超越する――件の確乎不変の決意に驚き、その決意に尊敬の念を抱く者なのである。(続く)