デカルトの決意--(2)自尊心と高邁 その7

 人を蔑んではならない。人を差別してはならない。そのように言われる。しかし差別意識を無くすにはどうすれば良いのであろうか。差別意識には原因がある。即ち差別意識は(例えば或る特定の国に関する)偏見=歪んだ認識から生まれるのである。従って、この偏見を是正するならば差別意識を無くすことができる。確かにそうである。しかしすんなりと自分の誤解を認めてあっさりと差別をやめてしまう麗しい人間は少ないと思われる。多くの者はむしろ自分の偏見にあくまでも固執するのではないか。それは何故かと言うと、多くの者の場合、偏見が差別意識の原因なのではなくて、逆に差別意識が偏見の原因になっているからである。
 差別意識を克服することは生易しいことではない。人間には、他人を蔑むことによって自分の優位性を確認したいという、やみ難い衝動があるからである。従って、傲慢な人間になるのは容易いが、謙虚な人間になることは難しい。謙虚を装うのは難しくないが。
 さて、人間は気高く生きなければならないというのが、デカルトからのメッセージである。但し、気高さ(高邁さ)とは傲慢さではない。気高く生きることは謙虚に生きることに他ならないのである。『情念論』155節でデカルトは、最も高邁な者は最も謙虚な者であると述べ、そして続いて高邁な者の謙虚さについて次のように語る。
人間の本性(ほんせい)の弱さについて反省し、自分がかつて犯し得た過ちあるいは将来犯し得る過ち(これらは他の人々が犯し得る過ちよりも小さくはない)について反省することによって、他の誰に対しても自分の方を優位に置くpréférerことをせず、他の人も自分と同じく自由意志を持つのであるから、自分と同じく自由意志を善く用いることができる〔つまり高邁であり得る〕と考える、――このことにのみ、高邁な者の謙虚さ、即ち徳としての謙虚さが存するのである、と。
 デカルトは人間というものを信じていた。つまりは神を信じていた。但し、この信仰はあくまでも誠実な懐疑を経由した信仰である。(続く)