古楽をめぐって:音楽と時間

昨夜はマラン・マレの生誕を祝うコンサートを聴きに出かけた。茗荷谷のラ・リールは音が柔らかく響き、余韻まではっきり聞こえる、とても良い会場だった。演奏者の方々もバロック音楽の醍醐味を十分に味わわせてくれた。

♦ さて、ここからは哲学的考察である。――私にとって古楽の魅力はその高雅さにある。高雅さというのは超越が生きていた時代、神が生きていた時代にしか存在しないものである。やがて、「神は死んだ」(ニーチェ)という余りにもよく知られた言葉によって象徴される、神は虚構であるとする超越に対する批判がヨーロッパを席巻することになり、芸術には高雅さが見られなくなるのである。しかし、歴史の流れとしてそれは仕方のないことであるとして、私は超越批判は超越の単なる否定ではないという観方をしたい。即ち、超越を批判することは、超越を単に殺すことではなくて、新たに/改めて超越を生きさせる(即ち我々が超越によって生きさせてもらう)ことへの契機である、という観方をしたいのである。

古楽の魅力は高雅さと共にその古さにある。古い音楽は取り分け、時計によって計られる時間とは異なる本来的な時間を経験させてくれるのである。それはどういうことなのか。私はもちろんマラン・マレが生きていた時代には生きていなかった。しかし我々は音楽によって、一度も体験したことのない古い時代へと立ち返ることができるのである。では、バロック時代のような古い時代へと立ち返るとはどのようなことなのであろうか。それは年表に向けられた眼差しを左方向に水平移動させることではない。我々は例えばマラン・マレを聴きながら、現在から(懐かしい)過去へと垂直方向に降りて行くのである。

♦ そして、バロック音楽を演奏したり聴いたりすることは、現在から過去へと下降することであるだけではなくて、同時に、過去から現在へと上昇することでもある。現実態としての音楽表現は、現在から過去へと下降し、過去から現在へと上昇する、現在と過去との間の往還である。

♦ ところで、こうした過去との交流、即ち垂直的時間=本来的な時間を可能にするのは、脳ではない。脳というのは物質であり、物質というのは、過去を保持する(記憶する)ことをせず、常にその瞬間その瞬間にしか存在しないのである。過去との交流が可能なのは、我々の生が――我々の意識が、と言ってもよい――絶えず過去を過去として保持しつつ(未来を目指して)新たな現在を迎えるからなのである。