音楽することと哲学すること――ピレシュの言葉(1)

 ♦ ポルトガル出身のピアニスト、マリア・ジョアン・ピレシュ(1944生)が、6月10日のNHKの番組に登場した。1970年代にモーツァルトのレコードを聴いて以来ピレシュ(昔はピリスと呼んでいた)のことは一応知っていたが、彼女は特に気になるピアニストではなかった。ところが、今回の放送を視聴して、認識をまったく新たにしたのである。

♦ ピアノの演奏と音楽に関する話。前者は後者の理解を助け、後者は前者の理解を助けるものであった。そして分かったのは、彼女にあっては「音楽する」ことがそのまま「哲学する」ことになっているということである。真の音楽家は必然的に哲学者になるのである。

♦ そこで、彼女の言葉の幾つかを、それらに簡単なコメントを加えつつ紹介することにしたい。なお、テレビの字幕は読みやすさを最優先にした訳であって、元の言葉を忠実に再現するものではないが、ここでは字幕に従うことにする。

♦ (ピレシュ)「今は音楽ビジネスやコンクールばかりが注目されます。芸術の存在余地がない、表面的なものばかりです。若者たちはそこから逃れられないと思い込んでいます。でも、そんなことはない。彼らは自らの本質(their own nature)をとことん探るべきなのです。芸術や創造の源、つまり音楽の根源を探求せねばならないのです。」

 

【コメント】商業主義の世界においては、多くの人に受けるものしか求められない。また競争主義の世界では点数化し得るものしか問題になり得ない。そこで若者たちも、世間の尺度や評価者の基準に良く合致する演奏をしようとする。しかしこのような演奏は、たとえ表面的には面白く個性的なものであろうと、創造的な演奏ではあり得ない。他人の眼の奴隷になり、自分を飾ることしか考えず、自分自身の魂に問いかけることのない演奏が、創造的な演奏であるわけがないのである。というのも、創造の源、即ち音楽や芸術の源(source)は、他ならぬ自分自身の自然本性(nature)であるからである。

ピレシュは、自分を見失ってしまっている若者たちを何とか覚醒させようとしているのである。(続く)