根本的両義性(13)――アガペーとエロス

このところずっと日本と韓国との関係が大きな問題になっているが、報道に接してつくづく思うことことは、日本政府の韓国政府に対する対応と、アメリカ政府に対する対応とが余りにも違うということである。日本政府は両国政府に対して、できるだけ対等でフェアな交渉を行なおうと努めるのではなくて、いつのまにか植えつけられた――正当な根拠のない――優越感と劣等感に導かれて非常に稚拙な外交を展開しているように見えるのである(もちろん相手側にも問題があるのであろうが)。一般社会にも見られるように、自分の強さと偉さを誇示したがる人間というのは、相手が変わると豹変し極度に卑屈になるのである。要するに不当に差別的なのだ。

こうした優越感と劣等感、即ち不当な差別感情というのは、どうしようもないものなのであろうか。ところで有名な山上の垂訓にはこうある。

「天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせ、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせてくださる。」(マタイ5章)

天の父は如何なる差別もしない。その愛――アガペー――は悪人にも善人にも公平に注がれるのである。聖書のこの一節は近代の平等思想の起源であり根拠であると見ることができるが、それを繰り返し味わうことができるならば、病的で偏狭な感情は多少なりとも癒やされるのではないであろうか。

 さて、この無差別的な愛のことであるが、それはあらゆる局面において成り立ち得るものではない。例えば自分の恋人や友人、あるいは自分の家族や祖国は、我々にとって多かれ少なかれ「特別な」存在である。つまり我々は事実上、人あるいは集団を差別しているわけである。差別的な愛――エロス――は我々の生活の中で極めて重要な位置を占めている。但しそれは絶対化されてはならない。

ここで聖書の或る一節を取り上げてみよう。

或る時イエスが話をしていると、一人の女性が声高に言った。

「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」

エスのような人から仰がれる者を自分の胎と乳房で産み育てたマリアはなんと幸いな者なのでしょう。そのように女性は叫んだわけであるが、イエスは直ぐさまこう応答する。

「むしろ幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」(ルカ11章)

エスの母としてのマリアよりも、むしろ神の言葉を聞きそれを守る人こそが真に幸いなのだ。イエスはそう応じたわけである。こうしてイエスは血のつながりを神とのつながりによって相対化するのであるが、このことはエロスはアガペーによって包まれているのでなければならないということを意味する。

ところで、上に引いた箇所の少し前でイエスはこう述べている。

「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである。」(ルカ8章)

このようにイエスは自分の母とか兄弟を血のつながりから解放して、神とのつながりによって定義し直している。但し、血のつながりを切り捨てているわけではない。それどころか、イエスは神の言葉を聞いて行う人たちを、母とか兄弟という言葉によって定義していると見ることもできるのである。このことは、アガペーはエロス的なものによって定義せざるを得ないことを意味する。

一方で肉的なエロスは霊的なアガペーによって包囲され、また他方で、(宗教家はこのことを決して認めないであろうが)アガペーはエロスに或る意味で依存する。二つの愛はあくまでも別のものであり対立し合うが、双方向的な関係にある。このよう仕方で二つを両立させることが我々の生きるべき道である。