政治の問題と魂の問題

 

己れの魂に無頓着な人間が権力を持つと必ず権力に溺れる。このことは政治の世界に限らずどこにでも見られることであろうが、そのような人間にとっては自分の権力(歪んだ自尊心)を守ることだけが重要なのであって、事実などどうでもよいのである。――例えば、自分に都合の悪いことを指摘されると巧みに話をずらす。堂々と嘘をつく。意味不明なことを意味ありげに言って目眩ましを食らわせる。理不尽な言いがかりをつけて相手をやり込める。自分が間違えていたとは絶対に言わない。しかも厄介なことに、大多数の者は権力になびくのである。

己れの権力に酔いしれ己れの魂を気遣うことができない人間は、他人の身になって考えることなど毛頭できない。従ってそのような人間には権力の座から降りてもらわなければならないのであるが、しかし話せば分かるということが基本的にあり得ない以上、目的を果たすためには相手と同じ土俵に上がらなければならない。即ち自分の方も何らか権力を持たなければならない。例えば支持者あるいは支持政党を選挙で勝たせなければならないのである。この場合ソクラテスの言う「魂の世話」は役に立たない。個人がいくら己れの魂を気遣い大切にしても、そのことによって社会を改善することができるわけではないのである。社会正義の実現は魂の問題ではなくて政治の問題である。

どの世界もそうであるが、取り分け政治の世界は「力」があからさまにものを言う世界である。政治の世界は勝ち負けの世界であり、敵か味方かの世界である。議論は論戦でしかない。選挙に臨む場合にも正しいことを生真面目に述べ立てるだけでは意味がない。弁論力によって人々を説得し、多くの支持者を集めなければならないのである。また様々な駆け引きも行なわなければならないであろう。・・・ しかしこうしたことにかまけることは、魂の純粋さという観点から見ると危険なことである。また善政によって仮に社会的不正を是正することができたとしても、そのことによって個々人が幸福になるとは限らないということも指摘しなければならないであろう。

我々が真に誠実であることができるとすれば、それは行動から離れた孤独な反省においてである。私は1968年から70年にかけての大学紛争の顛末を目の当たりにして以来、行動が内省を伴わないならば、社会正義という基本理念からして平板で底の浅いものにとどまるのではないかとずっと見ている。行動と内省を、はっきり区別しつつ結合しなければならない。

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この内省に関連したこととして、次はマグダラのマリアの悔悛について考察したいと考えている。