『ハノン』と個性の問題

♦ 以前テレビでピアニストの伊藤恵さんが音階練習の『ハノン』について、この教本は「自分はどのような音を出したいのか」、「自分にとって感動する音というのはどのような音なのか」を「探す」のにとても役に立つものではないか、というようなことを話されていた。これはどういうことなのであろうか。――

シューベルトソナタでも何でもよい、何か楽曲を演奏する際に演奏者は一定の感情を抱いている。またその感情を表現するためには曲をどのように組み立てたらよいかを考えている。しかし『ハノン』を弾く場合はそうではない。無味乾燥で機械的な音階を弾くことは感情や思考を必要としない。というより、感情や思考を全部取り払うことを要求するのである。しかし音楽を形成する要素をすっかりそぎ落としたいわば音楽のゼロ地点に立つことは、却って、純粋に音そのものに向き合う絶好の機会であり得るのであり、つまり自分はどのような音を出したいのかを探究する絶好の機会であり得るのである。

♦ 伊藤さんの言葉を私なりに理解すると以上のようになる。ピアニストは『ハノン』を弾くことによって(別に『ハノン』でなくてもよいのであるが)、めいめい、自分にとって感動する音というのはどのような音なのかを探究するのである。これは自分の魂の中に潜在する美的感覚を掘り起こすことであり、それ故にそれは優れた意味での自己探究でもあるのであるが、ピアニストはめいめい孤独の中でこうした探究を行なうことによって、自分独自の音色を創っていき築いていき磨いていくのである。

♦ 個性とはこのようなものである。即ち個性とは何か他人と違う身体的特徴とか能力的特徴とかに関わるものではなくて、探究の努力を通して培っていくものなのである。従って演奏家それそれぞれの個性――即ち独自の美学――は、単なる趣味のような自閉的なものではなくて、普遍性の香りを漂わせている。それは極めて特殊なものでありながら普遍性の雰囲気を醸し出しているのである。例えばホロヴィッツの音色、リヒテルの音色・・・を考えてみればよい。

♦ ところで、私の最大の関心事は、美的次元の個性と倫理的次元の個性との統合ということである。ピアノの音色の美しさという問題は、人格と行為の美しさという問題から切り離されてはならないのである。