ラモーの『プラテ』――「人間・この劇的なるもの」

 

♦ 昨日はフランスバロック・オペラ『プラテ』を観に池袋のBrillia HALLに出かけた。ジョイ・バレエ ストゥーディオの上演を観たのは一昨年の『レ・パラダン』に続いて二度目である。バレエも歌もすべて日頃の修練を感じさせる見事なものであったが、今回は特にオーケストラの充実ぶりに目を見張った。

♦ ところで、フォリーとアムールを熱演された高橋美千子さんが、何日か前にfacebookに、「皆が平等に 幸せになることはないが 皆が幸せであるように 願うことはできる それを第一の目的に 表現者として 自分を晒すことができたら 云々」と書いておられた。彼女は昨日もこの潔い志を確実に実現されていたのであるが、それはそうと、一般的な話として、芸術がもたらす「幸せ」とは一体どのようなものなのであろうか。この問題を少し考えてみるために、昔読んだ福田恆存の『人間・この劇的なるもの』を久しぶりに繙いてみた。

♦ 第一節の終わりにこうある。――

「劇的に生きたいというのは、自分の生涯を、あるいは、その一定の期間を、一個の芸術作品に仕たてあげたいということにほかならぬ。この欲望がなければ、芸術などというものは存在しなかったであろう。役者ばかりではない。人間存在そのものが、すでに二重性をもっているのだ。人間はただ生きることを欲しているのではない。生の豊かさを欲しているのでもない。ひとは生きる。同時に、それを味わうこと、それを欲している。現実の生活とは別の次元に、意識の生活があるのだ。それに関らずには、いかなる人生論も幸福論もなりたたぬ」と。

♦ 人間には現実の生活とは別の次元に意識の生活がある。そうである故に、人間はただ生きるだけではなくて、生きることを「味わう」ことができる。つまり劇的に生きることができるのであり、自分の生涯の全体あるいは一定期間を一個の芸術作品に仕立てることができるのである。世間ずれしていないおぼこのようなところのあるプラテを演じる役者も、エヴァをたぶらかした蛇のように狡猾なジュピテルを演じる役者も、そして更には役者たちだけではなくてオペラを鑑賞する者たちも、(生きることではなくて)生きることを「味わう」こと――例えば(怒ることではなくて)怒ることを「味わう」こと――への欲望を満たすのである。

♦ さて、福田は演戯(これは何かの振りをすることとしての演技と区別される)について次のように言う。「私たちの意識は、平面を横ばいする歴史的現実の日常性から、その無際限な平板さから、起きあがろうとして、たえずあがいている。そのための行為が演戯である」と。芸術活動とは現実から遊離した夢の中を浮遊することではない。そうではなくて、日常的な現実が意識を自分の方に引き倒そうとすることに抗して、意識がその現実を拒絶しつつその上にすっくと立ち上がることなのである。従って芸術活動は決して現実からの逃避ではない。

♦ 日常の現実とのこうした緊張関係において、我々は(ただ生きるのではなくて)生きることを「味わう」のである。このことには人々が日常的に次々と消費して行く諸々の快楽――例えばおいしいものを味わう快楽――とはまったく異質な歓びがある。この歓びが芸術がもたらす「幸せ」である。