「肉は悲し」③

♦ この前テレビのチャンネルを回していて「世界の子どもの未来のために」という番組に偶然出会った。カンボジアのスラム(寺院の敷地につくられたあばら家)に住む8歳の少女。父親が亡くなったため毎日、しかも朝5時から1日中働かなければならない。そうしなければ家族が食べていけないのである。危険な蓮沼で蓮の葉と実をバケツに入れ、それを街まで売りに行く仕事はかなり過酷である。しかし大好きだった父親が貧乏故に点滴を受けられずに死んでしまった大きな〈悲しみ〉は、学校にも通えていない8歳の少女に俗心と無縁な純真な夢と希望を抱かせる。

「大人になったら病気になった人たちを治療したい。」

「お医者さんになりたい。」

悲しみは無垢な希望を育む。悲しみは心を浄化するからである。そして清らか希望はそれ自体が清らかな喜びなのであり、そうであるからこそ、それは厳しい現実に耐えることを可能にするのである。

♦ 子供の夢に幼稚さを見ることは容易である。しかし健気な子供を見て大人はむしろ己れの不純さを恥じるべきではないのか。多くの大人が自分の堕落に気づきそれを悲しまない限り、社会問題としての貧困(極度の格差)の根本的な解決はあり得ないであろう。

♦ ところで先日、バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」のヴァイオリン譜(ペータース版)を買ってきた。この有名な曲はカンタータBWV147の終曲であり、原題はJesus bleibet meine Freude(イエスは私の喜びであり続ける)である。従って上記の邦訳名は英訳名の"Jesus, Joy of Man's Desiring"に倣ったものであると考えられるが、注目したいのは人の望みの喜びということ、つまり望みが喜びであることである。望みが叶うことが喜びなのではない。そもそも望みを抱くこととは別に望みが叶うことがあるわけではない。望みdesiringそれ自体が喜びjoyなのである。そのような望みが存在するのだ。(デカルトやカントの言う「善なる意志」もそのような望みに相当するであろう。)

♦ そして加えて言うと、この喜びの歌を弾いたり聴いたりしていると何とも言えない悲しさが迫ってくる。別にキリスト教の物語を信者のようにそのまま受け入れていなくても、贖罪主イエスと結びつくことの純粋な喜びと、それと裏腹の関係にある、全人類の贖罪のための十字架刑の悲しさとを、音楽の力によって同時に感じ取ることができるのである。実は悲しさなしには喜びはない。楽園から追放される以前のアダムとエヴァには、労働の苦しさや死の恐怖はなかった。およそ不幸はなかった。従って彼らは悲しさを知らなかった。しかしそれ故に喜びも知らなかったのである。

♦ いつの時代でも多かれ少なかれそうだったのであろうが、今日では宗教はかなり堕落してしまっているのではないであろうか。個人的経験に基づいて言うと、自分の惨めさに気づかない故に悲しむことを知らず、口ばかり達者で(内心では)人を見下しているキリスト教徒は決して少なくないのではないか。