「肉は悲し」④

♦ よく晴れて青空が澄んだ昨日は、練馬区立美術館で開催されている「背く画家/津田青楓」の回顧展に出かけた。印象深かったのはやはり「犠牲者」(1933)だった。これはプロレタリア作家の小林多喜二(1903~33)の獄死(拷問死)に触発されて描かれたものであり、作者はこれを十字架のキリスト像にも匹敵するようなものにすることを望みつつ描いたとのことである。ただ、キリストの場合と多喜二の場合とでは、やはり犠牲ということの意味が異なるであろう。多喜二の犠牲は贖罪や復活の物語に連ならないが、しかしそれ故に却って純粋さと神々しさを感じさせる。

♦ この酸鼻をきわめる「犠牲者」には、人権を蹂躙する官憲への強烈な批判が込められていると解説にあるが、当時の官憲の強権ぶりは凄まじく、津田にしても警察によって検挙され転向を余儀なくされた。しかし古今東西を問わず権力欲は人間を腐敗させるものなのだ。権力欲に取りつかれた者は権力を誇示するために、また権力を維持し増大させるために、手段を選ばないからである。モラルの崩壊は必定である。昨今我が国で問題になっている官邸の赦しがたい嘘やごまかしもその一例である。

♦ しかし腐敗しているのは権力欲に囚われた者だけではない。権力者におもねり権力に与ろうとする者も同じである。ところで、「長い物には巻かれろ」式の奴隷根性は権威主義という形で学界にも蔓延している。研究者には既成の観念に≪根本的な≫疑問を抱くための志と気概が欠けている。つまり研究は受験勉強の延長でしかなく、業績は出世のための点数稼ぎでしかない。そう言っても恐らく言い過ぎではないであろう。論文には巧みな装飾が施されているが、真理や正義に対する責任感というものが感じられない。

しかしそれにしても権力というのは難しい問題である。そもそも何らかの権力なしには社会の秩序は成り立たない、つまり社会は成り立たない。やはり権力は必要なのである。また、権力者に歯向かえばそれでよい、あるいは権力欲を批判すればそれでよいというわけではない。権力欲を批判することそれ自体にも実は或る種の権力欲が働いていると言えなくはないのである。これは肉である人間の悲しさであるが、しかし権力欲は決して完全には乗り越えられないということを洞察することができるならば、我々は権力欲に自覚的になり、よって、必要な権力を見極め、権力を謙虚で健全なものに保つことができるようになるのではないであろうか。