誠実と個性

♦ 昔高校生の時に少しかじったヒルティの『眠られぬ夜のために』(1935)の中に次のような一節がある。

「人間のあらゆる性質の中で最高のものは ≪誠実≫ Treue である。この誠実という性質は他のほとんどすべての性質を埋め合わせることができるが、それ自身は他のどんな性質によっても埋め合わせることができないのである。」

そう述べた後、ヒルティはこう続ける。

「しかし悲しいかな、この誠実という性質は人間にはかなり稀れにしか見られず、却って動物に頻繁に見られるのであり、実際のところこの肝腎な点で人間は動物を超えていないのである。」

♦ 更にヒルティは「感謝の念を抱く」ことも、高等動物と比べて人間においては稀れであると述べている。誠実や感謝の、巧妙な見せかけはよくあるかもしれない。しかし誠実にしても感謝にしても、本物は今日では稀れであるどころか、ほとんど失われてしまっているのではないであろうか。一つの象徴的な例を示すために、かつて梅原猛氏が新聞のコラム欄に書いた文章の一部を拝借することにする。

「私の六十年を超える学者としての人生においても、しばしば学者が表ではおべっかを言いながら裏では秘かに陰謀を試みたり、自分の欲望のために長年世話になった人を平気で裏切ったりするのを見て来た。」

♦ ところで、法隆寺金堂壁画を模写した鈴木空如(1873-1946)のことが先日の日曜美術館でも取り上げられていたが、古仏画の模写は極度の誠実(忠実)Treue を要求する故に、この画家に注目することで誠実ということについて考える緒が何か得られるような気がする。空如は誰かに依頼されたわけではないが高さが3メートル以上もある巨大な絵画をたった独りで実寸大模写したのであるが、紹介文に必ず書いてあるように、彼は画壇とは一切関わらなかった。展覧会にも出品しなかった。生涯を通じて地位も名誉も求めなかった。有名になろうともしなかった。――このような宗教的禁欲は極端で特殊な例であるが、事柄の本質をはっきりと示してくれる。前回の投稿(4/6)で私は自我(=自己愛)を問題にしたが、名誉欲などの自己愛を退けることこそが誠実であるための条件なのである。

日曜美術館では、「空如は無の境地で鉄線描を我がものにしていった」というナレーションがあった。鉄線描とは線に意味を持たせず、無になって均一な線を描き切る手法であるとのことである。邪念や怒りとか喜びとかといった感情があってはならないのである。――というわけで、誠実(忠実)とは自己愛を退け、無の境地に入ることによって実現されるものであると言うことができるが、ところで意味を持たせないように描かれた線とはどのような線なのであろうか。それは無意味な線なのではない。それはいわば人間的な意味(通常の感情)を超えた意味を帯びた線なのである。

♦ では、無になることによって誠実を実現するとはどういうことなのか。無になるということは自己愛が文字通り無くなってしまうということではない。そうではなくて、自己愛が変容するmetamorphoseということなのである。そして無になることによって誠実を実現するということは、何か超越的な価値に向かって自分が自分を超えることであり、つまりそれは自分というものが無くなってしまうことではなくて、本当の意味での〈自分〉が生まれるということなのである。本当の意味での〈自分〉とは、芸術活動などにおいて自分が自分を超える運動そのものなのであり、そしてそうした運動(誠実の実現)を通して作られてゆくのが各人のかけがえのない〈個性〉なのである。