あったことは無かったことにはならない――生の不滅性

♦ 森友改ざん訴訟が去る15日に大阪地裁で始まった。誰かも言っていたが、このように悲惨な犠牲者が出たというのに、どうして首相は裁判などを待つことなく第三者機関に徹底的な調査をさせないのであろうか。このような時にこそ権力者はその権力を最大限に行使すべきなのではないであろうか。言うまでもなく、権力というのは公的な立場に立って人々に奉仕するための手段である。従って自分の利益しか考えない者、人を人とも思わぬ者には、そもそも権力を持つ資格はないのである。

♦ ところで、森友問題に深く関わってきているジャーナリストの相沢冬樹氏が或るラジオ番組の中で、「あったことを無かったことにすること、有耶無耶にしてしまうことが一番良くない」と言っていたが、あったことは無かったことにはならないということは、犯罪者に対して強調すべきことであるだけではない。それは人の一生にこそ優れた意味で当てはまるのである。

まず、死の二面性について簡単に述べてみたい。

♦ 人間は可能性を糧に生きる動物である。昔、「北風の中に聞こうよ春を…」という歌があったが、どれほど困難な状況に置かれていても、何か可能性を感じ取ることができるならば人は生きる意欲を抱くことができるのである。ところが、死は人から一切の可能性を決定的に奪い去ってしまう。従って人は自分の死を考えると意気消沈してしまうのである。17世紀のパスカルが書いていたが、王様を狩りや賭け事に熱中させることが臣下の重要な役目であった。栄耀栄華を極める王様も気晴らしをせずに独り部屋にこもっていると、自分のこと、自分の死のことを考えてしまうからである。

♦ しかし死には逆の面もある。つまり死は生を活気づけるのである。人は死のない生を望むかもしれない。しかし喩えて言うと、永久に枯れることのない造花には、生花(せいか)の瑞々しい色や香りが欠けている。死のない生というのは実は生ではないのである。死があるおかげで生は実り豊かなものになり得る。生に期限があるからこそ、情熱的な愛があり得るのであり、芸術的創造があり得るのであり、勇気ある誠実な振る舞いがあり得るのである。但し、死が生を活気づける場合、死は思考の対象になっているのではない。ここが重要なポイントである。私は死を「考える」のではない。死は意識の奥に潜むのである。

♦ さて、死は取り消すことのできない出来事である。即ち死は無かったことにはならない出来事である。その意味で死は永遠である。但し死は普通の出来事とはまったく異次元のものである。死は存在の虚無化としていわば絶対的神秘なのである(そのことを感じる感度を持ち合わせている向きがどのくらいいるのかは分からないが)。

♦ そして死によって永久に封印される或る者の一生も、同様に永遠不滅の神秘的事実なのだ。

「或る者が〈生きた〉というこの深く闇に包まれた神秘的事実は、

永遠にわたってその者の路銀なのである。」

            (V. ジャンケレヴィッチ)

とすれば、生を蔑ろにすることはできないであろう。