霊感と論理

♦ 去る 15日の「魂の響き 旋律の鼓動 vol.3 〜祈りの日に〜」のライブ配信を視聴した。

高橋美千子さんの歌と佐藤亜紀子さんのリュート。名コンビであると思う。

ところで、前回9日のたまひびのあと高橋さんから、

「場所から得るインスピレーションに、音楽を扱う者として支えられました。今回のライブ配信はお客様の顔が殆ど見えませんので、いつもならお客様から得るインスピレーションがキャッチしにくく、それが一番難しかったです。」

という感想を伝えていただいた。この困難はいずれ克服されてゆくであろうが、しかしそれを待つまでもなく、視聴する者は演奏者とインスピレーションを少なからず共にすることで音楽を楽しむことができたのである。

♦ ところで、インスピレーションというのは他人から受け取るとしても、根本的には神来である。演奏家はそうしたインスピレーション、つまり〈霊感〉に導かれて演奏する。しかし他方、言うまでもないが、音楽というのは和音など諸々の面で〈論理〉的なものである。そのことは楽譜に眼に見える形で示されている。ただやはり論理よりも霊感が優先する。(最初に作曲家が受けた)霊感から論理が生み出されるのである。つまり楽曲における論理は霊感から切り離すことができないのである。しかし霊感が論理よりも優先するとはいえ、霊感は論理的なものに受肉して具体的な音に成ることを待たなければならない。具体的な音として限定されなければ霊感は分けの分からないものに留まってしまうのである。というわけで、霊感と論理をうまく結合させることが演奏家の課題である。

♦ 以上は音楽、芸術に限った話ではない。学問一般にも当てはまるのであり、更に我々の生活全般に当てはまるのである。霊感とはベルクソン流に言うと「知性より上位の感情」(開いた魂)であるが、しかしもしかして我々は多くの場合「知性より下位の感情」(閉じた魂)の中で論理(理屈)をこねくり回しているのではないであろうか。