身体への回帰――倫理の土台

♦ 「韓国なんて要らない」という嫌韓特集が昨年『週刊ポスト』(9月13日号)で組まれたそうなのであるが、この特集に関して内田樹氏は二つの点を指摘している(同氏の『サル化する世界』を参照)。一つは、このように世間の良識に反する攻撃的で差別的な言葉を世間に流布させるからには、職を賭すくらいの覚悟がなければならないのであるが、しかし当編集部には出版人としての矜持がまるでないということである。実際、雑誌発売直後に編集部は謝罪文を出しているのである。

♦ もう一つは、法律や常識や世間の目が機能していない今の言論環境に関することであり、「韓国なんて要らない」という嫌韓特集は、韓国に対してはどれほど卑劣で粗暴な言葉を吐いても処罰されないという楽観が今の日本社会に拡がっているが故にあり得たという指摘である。今の日本はいわば倫理的な無秩序状態になっていると見る内田氏は、この二点目の方が一点目よりも深刻であると言う。

♦ ところで、たしか80年代あたりに、人に迷惑をかけなければ何をしてもよいというようなことがよく言われていたと思うが、今日では、処罰されなければ何をしてもよい、懲罰の恐れがなければ不当に人を貶め傷つけてもよいと考える卑劣漢は、実は決して稀ではないのである。そうした他人の痛みが分からない輩、他人を自分と対等の人間と看做すことのできない輩は、残念ながら救いようがないと思われる。しかし今後そうした人間にならないための手立てならば考えられなくはないのではないであろうか。

♦ とりあえず一つ提案したいのは、“自我”をカッコに入れて身体のレベルに帰ることである。但しこの場合の身体は医学や生理学の対象としての身体ではない。音楽や美術やバレエなどの芸術に親しんでいる人にとってはとりわけ身近な身体、即ち感覚的であると同時に志向的・運動的であり、また表現的である、そのような身体である。

♦ さて、急いで倫理の問題に話を進めることにしよう。――私の右手が私の左手に重ねられると、私の身体は触れるものと触れられるものに分裂する。ただ分裂するといっても、触れる側と触れられる側は入れ替わり、しかも触れるもの(主体)と触れられるもの(客体)は互いに侵入し合う。即ちそれぞれの手はもう一方の触れつつある手に触れるのである。では、今度は私の右手を他者の右手に重ねるとどうなるのであろうか。その場合は私の右手と他者の右手は一つの同じ身体を共有するかのようになるのであり、触れるものと触れられるものは絡み合うのである。

♦ このように“自我”を脇に置いて身体のレベルに回帰するならば、私と他者は互いに含み合う。つまり対等な関係が成立するのである。私は他者の触れつつある手に触れる。私は他者の感覚=志向を感じ取る。私は例えば他人の痛みと交流する。――というわけで、身体が倫理の土台となり得るのではないであろうか。倫理は心の問題であるが、しかしまずは身体の固有性を知ることから始めなければならないのではないであろうか。