雪に隠れた白梅~~隠れたる神 ⑴

 

――惢心「ふつうは紅梅を探すのに、なぜ敢えて白梅を探すのですか? 

     雪に隠れた白梅のどこがいいのですか?」

――嫻妃「雪の中の紅梅は目に鮮やかで美しい。

     それに対して雪に隠れた白梅は香りで見分けるしかない。

     この世の美は見極めるのが難しいからこそ尊いのよ。

      (ドラマ『如懿伝〜紫禁城に散る宿命の王妃〜』29話)

♦ 主人公は雪景色に鮮やかに映える紅梅ではなくて、白雪に身を隠す白梅を愛する。容易に見て取れる美ではなくて、見極めるのが難しい美を尊ぶ。ということは、彼女にとっては、白梅を覆い隠す雪を取り除いてやれば白梅は益々美しくなるわけではないということ、ヴェールをはがすと白梅の美は却ってその尊さを失うということである。――実はこのことに美というものの秘密がある。あるいは愛というものの秘密があるのだ。

♦ 聖体の秘蹟をめぐってもう少し考えてみよう。聖体の秘蹟カトリックと無縁の人には奇異なものに見えるかもしれないが、それは或る普遍的な教訓を与えるものであると私は見る。

パスカルは次のように説明する。

(a)パンの実体は実体的変化をして我々の主の御体の実体となるのであり、イエス・キリストはそこに現実に≪現存≫する。

(b)秘蹟イエス・キリストの≪表象≫である。

聖体の秘蹟イエス・キリストの現実的≪現存≫であるということと、それはイエス・キリストの≪表象≫であるということとは矛盾するように見えるが、どちらも本当であるとするのがカトリック信仰なのだとパスカルは言う。

♦ ややこしい議論を省略して言うと、秘跡イエス・キリストの象徴であるということは、白梅が雪に隠れているようにイエス・キリスト秘蹟の内に隠れているということであると考えることができる。隠れていることは神に本質的なことなのである。「まことに汝は隠れています神なり」(『イザヤ書』45-15)。――しかも隠れていることは神の唯一の現存の仕方なのである。「神は不在という形でしか被造物の内に現存することはできない」(シモーヌ・ヴェイユ)。

♦ 神や美や真実は、ヴェールを被っていてこそ、神であり真実であり美であるのである。神や美や真実は、いわば敬虔な気持ちで嗅ぎ分けるべきものなのである。つまり、ヴェールをはがしてしまうような愛や信仰は愛や信仰ではないのである。――これが聖体の秘蹟が与える教訓である。

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