生としてのデカルト哲学

一昨日投稿した拙稿「デカルトと死の修練」の[結び」の部分のみをここに掲載する。

 

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デカルトの哲学は数学をモデルにしているといった類いの、恐ろしく表面的でまことしやかな哲学史的解説を投げ捨て、生(魂)そしてその核を成す信仰心にまで降りて行かなければデカルトの“哲学”は本当には分からないのではないか。これが我々が長い間抱き続けてきた思いである。

何とも不可解なのは、デカルトの懐疑について論じる者がデカルトの懐疑に関する哲学史のストーリーを鵜呑みにしていること、即ち制度化された知をまったく疑わないことである。忘れてはならないのは、デカルトは学校を去り書物の学問を捨てることによって哲学者になったということである。哲学が制度化することは或る意味で止むを得ないことではあるが、しかし我々は制度の中に安住し埋没してはならない。制度を内側から打ち破るのでなければならない。「哲学をばかにすることこそ真に哲学することである」というパスカルの言葉を、絶えず自分なりに咀嚼し味わわなければならないのである。

何とも不可解なのは、もう一つ、これは前段で指摘したことと結局同じことになるかもしれないが、デカルトの懐疑について論じる者が自分自身に対してデカルト的懐疑を遂行しないことである。デカルト的懐疑について考えつつも、ドクサにまみれた自分自身のことをまったく疑わない。そのような者はデカルト的懐疑を生きていないのである。そのような者にあっては、懐疑は己れ自身の生から切り離されている。哲学は自己自身の存在から分断されている。ところで、この分断は哲学の研究が自然の研究(自然科学)と同様に技術化・専門化することを意味する。そして哲学研究が技術化・専門化することは、哲学それ自身が技術的・専門的なものに変貌させられてしまうことを意味する。そうなってしまうと、デカルトの哲学は或る信仰心によって根拠づけられたものであるというような主張は笑いの種にしかならない。

我々は哲学とは何かという根本的な問いを回避してはならない。哲学とは何かと問うことは、何よりもまず、制度化した哲学を拒否することであり、哲学とは何かという制度化した問いを拒否することである。このような拒否によって、デカルトの哲学は生との絆を取り戻す。それは生に根差したものになる。それは生と一体化したものとなる。哲学が創造的であるのは、それが生と一体化している場合なのである。