泥中の蓮

♦ 再び如懿伝のことであるが、

皇帝に媚びることによって昇格することに激しく執念を燃やし、それ故に人を殺めることを何とも思わない、場合によっては実母を自分の身代わりに刑死させることさえ厭わない、狡猾で悪辣な妃嬪たちが陰謀を企てる後宮という狭い世界の中で、主人公の如懿は嫉妬や逆恨み、そして相次ぐ攻撃にも拘らず決して心を毒されない、――泥の中に生息しつつもその汚い泥の中で神秘的に輝く花を咲かせる蓮に倣うかの如くに。(写真は如懿伝からのもの)

 ♦ 蓮と言えば、中村文則の小説『逃亡者』を開くと、中国やフランスやアメリカといった大国の圧政に対して長年に亘って抵抗と闘争を続けてきたヴェトナムの歴史が、若きヴェトナム人女性アインによって語られる場面があるのであるが、そこで「蓮は泥より出でて泥に染まらず」という言葉が出てくる。彼女の話をほんの一部であるが引用してみる。

「ヴェトナムの国花は蓮です。・・・・ヴェトナムは裕福とは言えないし、苦難の歴史の上に立った国です。でも、そのような状況であっても、凛として、美しく咲いていたい。あの蓮の姿が、多くのヴェトナム人にとって理想なんです。」

 ♦ 改めて考えてみると、幸福とはこうした凛とした蓮の〈美しさ〉――これは優れた意味での〈快〉である――なのではないか。然り、幸福とは生き方の美しさなのだ。つまり幸福とは苦悩や苦労がないことではない。 No Mud, No Lotus. 蓮は汚れた泥がないと美しい花を咲かせることができないのである。苦しみを味わっているのでなければ幸せを味わうことはできない。もちろん苦しみが逆に人間を腐らせる

ことは大いにあり得るが。 

♦ そして私が最も注目したいのは、アインの話の次の部分である。

「蓮は植物ですから、そこに咲くとき水質を浄化するはず。自ら美しく咲くだけでなく、たった一咲きだけであったとしても、少しでも世界を美しくしようとするんです。」

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