『kyoukokukenbunshi’s diary』の「満たされないという自由」という文章を読んでその哲学的内容に刺激を受けたので、自由について少し論じてみる気になった。
♦ まず上記の文章についてであるが、それは
「満たされない、悲しい気持ちというものは誰にでもあると思うが、まあ仕方ないかと思うのは大切な事だと最近、思った。」
というように始まる。
「まあ仕方ないかと思う」ことは確かに大事なことである。しかしそのように思うことができない場合が多いのではないか。では、どうして仕方ないと思うことができないのか。それは(例えば体調を崩している)今の自分は別のようであり得たと思うからである。そのように思うことは自分を苦しめ不自由にすることであるが、厄介なことに、今の自分は別のようで(例えば健康で)あり得たというこの思いは、今の自分を過去の自分と比較することで、あるいは自分を他人と比較することで、益々強まるのである。
♦ 更に、他人の欲望を模倣することに人間の本質がある(R.ジラール)というようなことも言われる。というわけで、今の自分は別のようであり得たというように思わないこと、「まあ仕方ないかと思う」ことは、容易なことではないのであるが、しかし今の自分も過去の自分も、あるいは自分も他人も、実は別のようではあり得なかったのだ、それらはそう成るべくしてそう成っているのだ、というように観ることは不可能ではないのではないか。
♦ それはスピノザ的な言い方をすると、すべてを〈必然性の相のもとに〉観るということであるが、こうした必然性の認識――運命愛と言ってもよい――に、我々は解放感=自由を見出すことができるのである。
※ スピノザの言う必然性は神の本性の必然性であることに注意。
但しこれはあくまでも自由の一つの相である。
今度は実践的な観点から自由について論じてみたい。