<平和への志> と <戦争への欲望>

♦ 思想と志について、高橋和巳は次のように書いている。

「どんな思想も最初は教えられるかたちで心の中へはいってくる。どんな観念もはじめはちょっとした思いつきにすぎない。そして、それが衒学的な知識や思いつきに終るか、一つの〈志〉となるかは、一にかかって持続するか否かにある。そしてその持続の間に、自己の行為や生活や存在のあり方と、どこまで深くかかわらせるか、あるいは乾燥した観念にどれだけ情念を投入するかにかかっている。」(「〈志〉ある文学」 1966.1)

 

♦ ところで、悲惨な戦争体験を動機とする平和への祈りというものがあるが、その一方で、平和というものを平和思想として学ぶ場合もある。我々日本人にとっては憲法第九条が身近なものであるが、憲法以前に、仏教やキリスト教などの宗教は平和思想を熱く説いているのである。しかし重要なことは、平和思想が単なる思想に留まらずに、個々人において血肉化し一つの〈志〉となることである。

 

♦ しかし志とは何なのか? 志ということで私が参照したいのは、メルロ=ポンティの哲学観である。現象学は未完である。たまたま未完であるのではなくて、不可避的に未完なのである。現象学は常にはじまりつつある運動であって、学説や体系として完結すべきものではないからである。要するに、現象学バルザックプルーストヴァレリーセザンヌなどの仕事と同様に、骨の折れるものなのなのだ。――メルロ=ポンティは『知覚の現象学』の序文の最後のところで以上のようなことを述べているが、私にとって志というものはこうした言葉によって表現されるものである。

 

♦ さて、戦争への欲望に対抗するには平和への志をもってするしかないと私は考えるのであるが、この戦争への欲望は非常に手強い。というのも、それは或る種本能的なものであるからである。戦争への欲望は他人の欲望を模倣している場合もあれば、洗脳によって植えつけられた場合もあるが、そのようなことはともかくとして、実は非常に根深いものなのである。

 

ベルクソンの言う「閉じた社会」は、未開社会に限ったものではなく、文明社会も或る程度それに相当するものであるが、この閉鎖社会は排他的であり、いわば自衛本能と攻撃本能を働かせて他の社会と闘争するのである。つまり現代社会においても、戦争への欲望は根深いものとして存在するわけであるが、ベルクソンはこうした閉じた社会に対して、家族愛や祖国愛とは質的に異なる人類愛を原理とする開いた社会を提唱する。しかし私は、戦争への欲望に対抗するには個々人が平和への志をみずから育てるしかないと考える。