高橋和巳「孤立無援の思想」(1963)を読む (9) 

♦ 安倍元首相銃撃事件は政治的事件である。野党議員やジャーナリストの方々には政治の圧力に屈することなく、この事件が炙り出した統一教会安倍氏との浅からぬ関係、カルト宗教と政治家との癒着をとことん究明していただきたい。ただ、心配なのは、病的ともいえる萎縮が報道機関を深く侵していることである。

♦ 報道の世界だけではない。病的な萎縮は社会全体に蔓延していると思われる。私は先日或る哲学会の総会において、哲学研究者であり哲学教員である会員諸氏が、学会において現実に起こった不正に対して余りにも無関心であることを嘆いた。哲学には関心があるが現実における公正とか正義ということにはまったく関心がないということが、一体どうしてあり得るのか。それは哲学研究が現実の生から遊離してしまっているからなのであるが、ということは、哲学研究がその対象である哲学そのものからも乖離してしまっているということである。これは件の萎縮の病いの典型例に他ならない。

♦ 私は開会の辞において、哲学は語られるものである以前に生きられるものでなければならないということを強調した。しかし現象学に関するシンポジウムを聴いて確認したことは、最近の若い研究者はやたらに器用であることである。一見何か目新しいことを言っているようでいて、考察の基本はあくまでも(ハイデガーレヴィナスメルロ=ポンティについての)一般通念そのものなのである。また彼らは質疑応答においても実に如才ないのであるが、他の人間と格闘しないのは、そもそも自分自身が孤独の中で格闘していないからである。つまり真摯にかつひたむきに哲学を追及していないからである。――要するに、皆、タコツボという安全な場所に閉じこもってそこに安住したいのである。

小林秀雄は「プルターク英雄伝」(1960)の中で「講壇哲学の堕落」ということを言っている。そして高橋和巳は「葛藤的人間の哲学」(1962)の中で、「丸山眞男が『現代政治の思想と行動』において指摘した政党・軍閥・官僚の無責任の体系は、意外に戦後の哲学の内部にも浸透していた」と語っている。既に60年前にこのようなことが指摘されていたのだとすると、今日における哲学研究者の異常なまでの〈萎縮=無責任〉は致し方ないのであろうか。

 

[はじめは安倍襲撃事件とからめて、高橋の長大なエッセイ「暗殺の哲学」(1967)に触れるつもりであったが、これについてはいつか言及することにする。]

 

★文学は哲学と同様に人間の現実の生を掘り下げて問題にするものであると思うが、文学研究者も哲学研究者と同様に現実の生から遊離してしまっているようである。つまり現実における公正とか正義ということにはまったく関心がないようである。

私とは関係のないロシア文学会に関するものであるが、以下のようなブログ記事を目にしたのでコメントを書いた。

https://yumetiyo.hatenablog.com/entry/2022/07/18/193717