優劣の呪縛からの解放――身体の論理[1]

♦ ダンサーで振付家勅使川原三郎氏を特集する番組(日曜美術館)を録画で観た。この番組では様々なシーンが連関なしに羅列されていて、番組制作者が一体何を理解し何を伝えようとしているのかが観ていてよく分からなかったのであるが、それはともかくとして、ここでは『風の又三郎』(2022年9月公演)に向けて行なわれた、愛知県芸術劇場でのワークショップ形式のオーディションにおいて、勅使河原氏が地元東海圏のバレエダンサーたちを相手に語っていたことに注目してみたい。

♦ 氏が諭すように語っていたことを再構成してみると、――

確かにダンスというのは表面上行なうという外向きのことであり、胸や顔や手や足つきといった、表面のいちばん出っ張っているところを人は見たがる。しかし本当に大事なのは表面の反対側、つまり裏側なのである。

具体的に言うと、体を動かす上で最も大事な部分は脇の下である。そして喉、耳の下、股関節、足の裏。つまり体で隠れているところ、柔らかいところが、体をコントロールする上で大切なところなのである。

そして何といっても大切なのは呼吸。呼吸は眼に見えないが、体の動きを明快にするのである。

♦ そこで勅使河原氏は、見えないものこそが見えるものを作っているのであり、動かないものこそが動くものを作っているのであると言う。あるいは、表も裏も一緒なのであり、もっと言えば裏こそが表なのであると語る。因みに、氏は件の番組とは別のところでも、例えば、動きの芸術であるダンスは静けさtranquilityに達する道であり、動きと静けさは対照物として互いに必要とし合っている、つまりそれらはリンクしている、というようなことを述べているのであるが、これは言い換えれば、動きこそが静けさを作るということ、動きこそが静けさであるということであり、動きも静けさも一緒であるということである。

♦ 以上に見たような、裏と表、見えないものと見えるもの、動きと静けさといった反対物の連結、同一性ということは、言葉としてだけ見るならば特に目新しいことではないのであるが、重要なことは、それがダンスや振付などの創造的実践において、まさに身体によって、勅使河原氏が確信するに至ったことであるということである。つまり、氏が様々な形で語る反対物の同一性は、メルロ=ポンティが生涯追求し続けた〈身体の論理〉なのである。

♦ ところで、件のオーディションとは別の場所でのインタビューで、自分は人との競争が苦手だし、優劣という価値観も好きでない、芸術にそんなもの〔優劣などというもの〕があるわけないし、人生にそんなものがあるわけない、と勅使河原氏が語る場面がある。では、氏はどうしてそのように言うのであろうか?(続く)

https://www.youtube.com/watch?v=qUJVVbdCQhE&list=PLSVowH80CLGweLgW_Z098zybrfsIxIE8u&index=15