優劣の呪縛からの解放――身体の論理[2]

♦ 以前NHKの報道にもあったが、ロシアのウクライナへの軍事侵攻に隠れた形で、ミャンマーでは内戦が泥沼化している。無抵抗の住民をも巻き込む大規模な空爆を展開した国軍と、抵抗勢力との戦闘が深刻化しているのである。内戦ということでは、例えば、古くロシア革命期においてレーニンボリシェヴィキ政権が行なった大量殺人(赤色テロ)のことがすぐ思い浮かぶが、それはともあれ、私は今、政治というものそのものの恐ろしさに改めて思い至る。――戦争は政治の破綻ではない。むしろ政治がむき出しになって継続することなのだ。そのように高橋和巳は繰り返し語っていたが(「戦争論」「暗殺の哲学」)、まさにその通りなのであろう。政治がむき出しになることは、人間の闘争本能と支配欲がむき出しになることなのである。戦争を根絶するためには、政治がむき出しにならないようにしなければならない。しかしそれは決して不可能なことではないであろう。

♦ ところで、芸術は政治と違って、決して戦争にはなり得ないものである。ただ、芸術にはビジネスやコンクールといった競争的なものが内部に侵入する可能性が十分にあるのであり、実際競争的なものの侵入による弊害が少なからず見られるのである。

私は2018年6月13日の投稿において、ピアニストのピレシュの次のような言葉を引いた。(テレビの字幕は元の言葉を忠実に再現するものではないが、ここでは字幕に従う。)

「今は音楽ビジネスやコンクールばかりが注目されます。芸術の存在余地がない、表面的なものばかりです。若者たちはそこから逃れられないと思い込んでいます。でも、そんなことはない。彼らは自らの本質(their own nature)をとことん探るべきなのです。芸術や創造の源、つまり音楽の根源を探求せねばならないのです。」

♦ そして、私はこのピレシュの言葉に次のようなコメントを添えた。

「商業主義の世界においては、多くの人に受けるものしか求められない。また競争主義の世界では点数化し得るものしか問題になり得ない。そこで若者たちも、世間の尺度や評価者の基準に良く合致する演奏をしようとする。しかしこのような演奏は、たとえ表面的には面白く個性的なものであろうと、創造的な演奏ではあり得ない。他人の眼の奴隷になり、自分を飾ることしか考えず、自分自身の魂に問いかけることのない演奏が、創造的な演奏であるわけがないのである。というのも、創造の源、即ち音楽や芸術の源(source)は、他ならぬ自分自身の自然本性(nature)であるからである。

ピレシュは、自分を見失ってしまっている若者たちを何とか覚醒させようとしているのである。」

――「音楽することと哲学すること――ピレシュの言葉(1)」 2018.06.13

♦ さて、少し回り道をしたが、次に前稿の末尾で触れた、ダンサーの勅使河原三郎氏の「自分は人との競争が苦手である」とういう言葉について考察することにしたい。(続く)

https://www.youtube.com/watch?v=BBn-LXlfG1w&list=PLSVowH80CLGweLgW_Z098zybrfsIxIE8u&index=2&t=80s