優劣の呪縛からの解放――身体の論理[4]

♦ 先日浦和で行なわれたマギー・マラン作『May B』の公演に関する或る投稿を大変興味深く読んだ。この『May B』は「障がいがあるだけで社会から排除されがちな者達が、笑い、悲しみ、怒り、孤独に陥る様を見せる」ものだそうで、「社会からは劣っているかのように扱われる障がい者達は、処世術に長けた「健常者」には持ち得ない純粋さを持っている」という感想を投稿者は述べている。

そしてまた、元々モーリス・ベジャールのバレエ団にいたマギー・マランは、「バレエの<基準>が色々な人をダンスから排除している事に疑問を抱いてこの作品を作った」ということ、「美の<基準>を満たす事を目指す社会がどれほど歪んでしまうか〔過酷なダイエットやセクハラ問題など〕」ということも投稿では語られている。

♦ この場合の基準は差別をもたらし得るものであり、逆に言うとマギー・マランの作品は優劣の価値観からの解放であり得るのであるが、ところで、バレエの基準、美の基準というものの弊害については、別の観点からも指摘することができる。こうした基準は動作の流れの内発性=自然発生性を阻害する可能性があるのである。

♦ バレエのことから離れるが、漱石は『現代日本の開化』(明治44年、1911年)の中でこう述べている。西洋の開化は内発的であるが、日本の開化は外発的である。内発的というのは「内から自然に出て発展するという意味で、ちょうど花が開くようにおのずから蕾が破れて花弁が外に向う」ということであり、外発的というのは「外からおっかぶさった他の力でやむをえず一種の形式を取る」ということである、と。

外発的開化とは言い換えれば<基準>に則る開化であり、それ故にそこにおいては内発性=自然発生性が阻害され得ると言うことができる。

♦ ところで、開化の内発性、即ち開化の推移の内発性について、漱石は次のようにも説明する。「(・・・)人間活力の発展の経路たる開化というものの動くラインもまた、波動を描いて弧線を幾つも幾つも繋ぎ合せて進んで行くと云わなければなりません。無論描かれる波の数は無限無数で、その一波一波の長短も高低も千差万別でありましょうが、やはり甲の波が乙の波を呼出し、乙の波がまた丙の波を誘い出して順次に推移しなければならない。」

♦ こうした内発的開化には予め定められた基準はない。但し、基準はないとしても、開化の推移はまったく恣意的で偶然的であるというわけではない。ここでダンスの話に立ち戻ると、前稿で書いたように、それ自身は眼に見えない起点Originが、ダンスの眼に見える運動の全体を貫いているのである。つまり、ダンスの展開は、それが内発的である限り、偶然的であると同時に必然的でもあるのである。

初々しく新鮮な動きとは、そうした偶然的であると同時に必然的でもある動きなのである。

https://www.youtube.com/watch?v=LUrXcldVnow&t=6s