関係の条件としての孤独 (2) 「すべての人間の悪は 孤独であることができないところから生ずる。」  

三木清は1945年、豊多摩拘置所で獄死した。享年48歳であった。

「9月26日朝、看守が三木の独房の扉をひらいたとき、三木は木のかたい寝台から下へ落ちて、床の上で死んでいた。干物のように。」

――日高六郎『戦後思想を考える』(1980)

三木は、仮釈放中に逃亡していた治安維持法違反の被疑者を匿ったという廉で逮捕され、その数か月後に獄死した。巧妙に仕組まれた殺人であったとも言われるが、ともあれ、もし寒い季節に人にコートを与えるという親切心を持たなかったならば、彼はこのような無残な死に方をすることはなかったのだ。そのコートには三木のネームが入っていたのである。

 

日高六郎は上掲書において次のようなことを語っている。――

三木清が獄死したのは、敗戦の日から1か月以上経ってからである。三木の獄死のニュースを聞いて、ロイター通信の一人の記者、即ち民間人である一人の外国人記者が、人権蹂躙に対する怒りから、山崎内相に面会し、次いで10月4日にマッカーサー元帥をして政治犯の釈放を指令させたのであるが、それまでは、誰一人として政治犯の釈放の要求を掲げて、拘置所・刑務所に押しかけることはなかったのだ。

 

❤そして日高は言う。「三木清を獄中から救いだせなかったこと、戦争犯罪の問題を日本人民の手で追及し解決できなかったこと。それは、戦争終結をかちとるための運動が日本人民のなかからついに起こらなかったことと、まっすぐにつながっている。残念ながら、そこには人民の力の弱さがあった。」

では現在、日本人民はその無力を克服できているのだろうかと日高は問う。日高がそのように問うたのは今から40年以上も昔のことであるが、それでは2023年の現在においてはどうなのか・・・

 

❤最近、戦前回帰というようなことが言われるが、日本人は戦前から、その本質においてはそれほど変わっていないのではないか。つまり、無反省と無責任という点、そして人権感覚の鈍さという点は、口で何を言っているかはともかくとして、大して変わっていないのではないか。私は人が本質的に変わらない限り、社会は本質的には変わらないと考える。

 

「すべての人間の悪は孤独であることができないところから生ずる。」

という三木の言葉を、我々はよく噛みしめなければならない。

 

❤ところで、三木が逃亡者に親切にしたのは、相手と思想を共有するからではない。そうではなくて、寒さに凍える人間を見るに忍びなかったからであり、つまるところ、三木が愛と希望を糧に生きていたからである。私はそう思う。

 

「孤独は最も深い愛に根差している。そこに孤独の実在性がある。」