♦先の投稿で「良心の自由」について書いたが、良心というのは自分の内にありながら、自分を超えているもの、内なる超越であり、私利私欲や党利党略、既成の道徳やイデオロギーなどから独立に、善悪、正不正を実践的に判断するものである。
私にとって良心は神の像 Imago Dei である。私はどの宗教にも身をゆだねることはないという意味で、無宗教であるが、しかし神への信仰は私にとって究極の関心事である。
♦先日3日、メンデルスゾーン・コーア等によるメンデルスゾーンの「交響曲第2番《讃歌》」を聴いた。3番、4番、5番は昔から愛聴していたのであるが、この2番は恐らくはじめて聴いた。【1.シンフォニア】では(聴き覚えのある)印象深い基本主題――本曲の中で何度も繰り返される――が奏でられ、【2.合唱】では、Alles, was Odem hat, lobe den Hern!(すべて息あるものは主を頌(ほ)め讃えよ!)と華々しく歌われる、――というように進んでいく。比較的小編成による演奏だったが、そのことを感じさせぬ立派な演奏だった。
(なお、一曲目の「最初のワルプルギスの夜」については、もしできれば稿を改めて取り上げてみたい。)
♦神をたたえ讃美する「讃歌」は、軍歌や国歌とは根本的に異なる。
軍歌の場合、「貴様と俺とは同期の桜・・・」といったような歌詞に曲が付けられることで、兵隊の士気を高揚させ国民の愛国心を発揚させる効果を有することになる。国歌についても同じことが言える。「君が代は千代に八千代にさざれ石の・・・」という現代人には分かりにくい古い短歌であっても、曲が付加されることで、愛国心を育成する効果を有するものになるのである。このように音楽の力は絶大である。しかし問題は、士気とか愛国心というのは、ベルクソンの用語を借りると、「閉じた魂」の表れなのである。
♦一方、神をたたえる讃歌は、自分の内に自分を無限に超えるもの(神)が存在することを自覚することを助ける、強力な力となり得るものである。讃歌は「開いた魂」の表れであるところの人類愛を育み得るものである。人類愛は愛国心(祖国愛)を拡大したものではまったくないが、例えば日本国憲法の前文をお花畑と揶揄する者は、内なる超越である良心を自覚することで、己れの心の卑しさを恥じるべきである。
















