雪に隠れた白梅~~隠れたる神 ⑴

 

――惢心「ふつうは紅梅を探すのに、なぜ敢えて白梅を探すのですか? 

     雪に隠れた白梅のどこがいいのですか?」

――嫻妃「雪の中の紅梅は目に鮮やかで美しい。

     それに対して雪に隠れた白梅は香りで見分けるしかない。

     この世の美は見極めるのが難しいからこそ尊いのよ。

      (ドラマ『如懿伝〜紫禁城に散る宿命の王妃〜』29話)

♦ 主人公は雪景色に鮮やかに映える紅梅ではなくて、白雪に身を隠す白梅を愛する。容易に見て取れる美ではなくて、見極めるのが難しい美を尊ぶ。ということは、彼女にとっては、白梅を覆い隠す雪を取り除いてやれば白梅は益々美しくなるわけではないということ、ヴェールをはがすと白梅の美は却ってその尊さを失うということである。――実はこのことに美というものの秘密がある。あるいは愛というものの秘密があるのだ。

♦ 聖体の秘蹟をめぐってもう少し考えてみよう。聖体の秘蹟カトリックと無縁の人には奇異なものに見えるかもしれないが、それは或る普遍的な教訓を与えるものであると私は見る。

パスカルは次のように説明する。

(a)パンの実体は実体的変化をして我々の主の御体の実体となるのであり、イエス・キリストはそこに現実に≪現存≫する。

(b)秘蹟イエス・キリストの≪表象≫である。

聖体の秘蹟イエス・キリストの現実的≪現存≫であるということと、それはイエス・キリストの≪表象≫であるということとは矛盾するように見えるが、どちらも本当であるとするのがカトリック信仰なのだとパスカルは言う。

♦ ややこしい議論を省略して言うと、秘跡イエス・キリストの象徴であるということは、白梅が雪に隠れているようにイエス・キリスト秘蹟の内に隠れているということであると考えることができる。隠れていることは神に本質的なことなのである。「まことに汝は隠れています神なり」(『イザヤ書』45-15)。――しかも隠れていることは神の唯一の現存の仕方なのである。「神は不在という形でしか被造物の内に現存することはできない」(シモーヌ・ヴェイユ)。

♦ 神や美や真実は、ヴェールを被っていてこそ、神であり真実であり美であるのである。神や美や真実は、いわば敬虔な気持ちで嗅ぎ分けるべきものなのである。つまり、ヴェールをはがしてしまうような愛や信仰は愛や信仰ではないのである。――これが聖体の秘蹟が与える教訓である。

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身体への回帰――倫理の土台

♦ 「韓国なんて要らない」という嫌韓特集が昨年『週刊ポスト』(9月13日号)で組まれたそうなのであるが、この特集に関して内田樹氏は二つの点を指摘している(同氏の『サル化する世界』を参照)。一つは、このように世間の良識に反する攻撃的で差別的な言葉を世間に流布させるからには、職を賭すくらいの覚悟がなければならないのであるが、しかし当編集部には出版人としての矜持がまるでないということである。実際、雑誌発売直後に編集部は謝罪文を出しているのである。

♦ もう一つは、法律や常識や世間の目が機能していない今の言論環境に関することであり、「韓国なんて要らない」という嫌韓特集は、韓国に対してはどれほど卑劣で粗暴な言葉を吐いても処罰されないという楽観が今の日本社会に拡がっているが故にあり得たという指摘である。今の日本はいわば倫理的な無秩序状態になっていると見る内田氏は、この二点目の方が一点目よりも深刻であると言う。

♦ ところで、たしか80年代あたりに、人に迷惑をかけなければ何をしてもよいというようなことがよく言われていたと思うが、今日では、処罰されなければ何をしてもよい、懲罰の恐れがなければ不当に人を貶め傷つけてもよいと考える卑劣漢は、実は決して稀ではないのである。そうした他人の痛みが分からない輩、他人を自分と対等の人間と看做すことのできない輩は、残念ながら救いようがないと思われる。しかし今後そうした人間にならないための手立てならば考えられなくはないのではないであろうか。

♦ とりあえず一つ提案したいのは、“自我”をカッコに入れて身体のレベルに帰ることである。但しこの場合の身体は医学や生理学の対象としての身体ではない。音楽や美術やバレエなどの芸術に親しんでいる人にとってはとりわけ身近な身体、即ち感覚的であると同時に志向的・運動的であり、また表現的である、そのような身体である。

♦ さて、急いで倫理の問題に話を進めることにしよう。――私の右手が私の左手に重ねられると、私の身体は触れるものと触れられるものに分裂する。ただ分裂するといっても、触れる側と触れられる側は入れ替わり、しかも触れるもの(主体)と触れられるもの(客体)は互いに侵入し合う。即ちそれぞれの手はもう一方の触れつつある手に触れるのである。では、今度は私の右手を他者の右手に重ねるとどうなるのであろうか。その場合は私の右手と他者の右手は一つの同じ身体を共有するかのようになるのであり、触れるものと触れられるものは絡み合うのである。

♦ このように“自我”を脇に置いて身体のレベルに回帰するならば、私と他者は互いに含み合う。つまり対等な関係が成立するのである。私は他者の触れつつある手に触れる。私は他者の感覚=志向を感じ取る。私は例えば他人の痛みと交流する。――というわけで、身体が倫理の土台となり得るのではないであろうか。倫理は心の問題であるが、しかしまずは身体の固有性を知ることから始めなければならないのではないであろうか。

霊感と論理

♦ 去る 15日の「魂の響き 旋律の鼓動 vol.3 〜祈りの日に〜」のライブ配信を視聴した。

高橋美千子さんの歌と佐藤亜紀子さんのリュート。名コンビであると思う。

ところで、前回9日のたまひびのあと高橋さんから、

「場所から得るインスピレーションに、音楽を扱う者として支えられました。今回のライブ配信はお客様の顔が殆ど見えませんので、いつもならお客様から得るインスピレーションがキャッチしにくく、それが一番難しかったです。」

という感想を伝えていただいた。この困難はいずれ克服されてゆくであろうが、しかしそれを待つまでもなく、視聴する者は演奏者とインスピレーションを少なからず共にすることで音楽を楽しむことができたのである。

♦ ところで、インスピレーションというのは他人から受け取るとしても、根本的には神来である。演奏家はそうしたインスピレーション、つまり〈霊感〉に導かれて演奏する。しかし他方、言うまでもないが、音楽というのは和音など諸々の面で〈論理〉的なものである。そのことは楽譜に眼に見える形で示されている。ただやはり論理よりも霊感が優先する。(最初に作曲家が受けた)霊感から論理が生み出されるのである。つまり楽曲における論理は霊感から切り離すことができないのである。しかし霊感が論理よりも優先するとはいえ、霊感は論理的なものに受肉して具体的な音に成ることを待たなければならない。具体的な音として限定されなければ霊感は分けの分からないものに留まってしまうのである。というわけで、霊感と論理をうまく結合させることが演奏家の課題である。

♦ 以上は音楽、芸術に限った話ではない。学問一般にも当てはまるのであり、更に我々の生活全般に当てはまるのである。霊感とはベルクソン流に言うと「知性より上位の感情」(開いた魂)であるが、しかしもしかして我々は多くの場合「知性より下位の感情」(閉じた魂)の中で論理(理屈)をこねくり回しているのではないであろうか。

歌うことは生きることそのもの 

9日に横浜エアジンで行われたPastime with Good Company たまひび古楽ライブ』をオンラインで視聴した。高橋美千子さん(ソプラノ)と佐藤亜紀子さん(リュート)のデュオ。――以前コンサートでお二人の演奏を聴いた時より以上にアット・ホームな雰囲気だったのが良かった。途中、現在のコロナ禍との関連で、戦時下で人々が受けた規制や強制のこと、また(8月9日ということで)長崎への旅行の思い出を高橋さんが語っていたが、4月以降コンサートがすべてキャンセルされ活動がひどく制約されている昨今の辛い状況から戦争のことを連想してしまうのは、演奏家にとっては恐らく自然なことなのであろう。しかしそれでも災厄に屈することなくみずからの道を突き進もうという強い意志をお二人に感じた。

♦ ところで、先日の報道特集でキャスターの金平茂紀氏が、「芸術は不要不急のものとされているが、芸術というのは生きることそのものなのである」と言っていた(私の記憶は正確ではないかもしれないが)。確かに芸術は不要不急のものと看做されても仕方のないものなのかもしれない。しかし芸術は生きるために必要不可欠なものではないとしても、まさに肝心かなめを成すもの、つまり〈生きることそのもの〉なのである。というわけで、芸術を趣味とか教養という観点で見ることに私は激しい違和感を覚える。

♦ 人はお金とか社会的地位といった、生きるために必要なものに大いなる関心を寄せる。しかしこの関心は度が過ぎると、却って人をして生きること自体に対して無関心にさせてしまうのではないか。あるいは、生を豊かなものにするどころか、むしろ貧しく邪なものにしてしまうのではないか。それに対して、芸術はそれが純粋なものである限り、〈生きることそのもの〉として、他人に対する不当な支配や優越への貪欲(またその裏返しとしての奴隷根性)から人を解放し、人と人とが互いに求め合う対等な関係を作るはずである。

あったことは無かったことにはならない――生の不滅性

♦ 森友改ざん訴訟が去る15日に大阪地裁で始まった。誰かも言っていたが、このように悲惨な犠牲者が出たというのに、どうして首相は裁判などを待つことなく第三者機関に徹底的な調査をさせないのであろうか。このような時にこそ権力者はその権力を最大限に行使すべきなのではないであろうか。言うまでもなく、権力というのは公的な立場に立って人々に奉仕するための手段である。従って自分の利益しか考えない者、人を人とも思わぬ者には、そもそも権力を持つ資格はないのである。

♦ ところで、森友問題に深く関わってきているジャーナリストの相沢冬樹氏が或るラジオ番組の中で、「あったことを無かったことにすること、有耶無耶にしてしまうことが一番良くない」と言っていたが、あったことは無かったことにはならないということは、犯罪者に対して強調すべきことであるだけではない。それは人の一生にこそ優れた意味で当てはまるのである。

まず、死の二面性について簡単に述べてみたい。

♦ 人間は可能性を糧に生きる動物である。昔、「北風の中に聞こうよ春を…」という歌があったが、どれほど困難な状況に置かれていても、何か可能性を感じ取ることができるならば人は生きる意欲を抱くことができるのである。ところが、死は人から一切の可能性を決定的に奪い去ってしまう。従って人は自分の死を考えると意気消沈してしまうのである。17世紀のパスカルが書いていたが、王様を狩りや賭け事に熱中させることが臣下の重要な役目であった。栄耀栄華を極める王様も気晴らしをせずに独り部屋にこもっていると、自分のこと、自分の死のことを考えてしまうからである。

♦ しかし死には逆の面もある。つまり死は生を活気づけるのである。人は死のない生を望むかもしれない。しかし喩えて言うと、永久に枯れることのない造花には、生花(せいか)の瑞々しい色や香りが欠けている。死のない生というのは実は生ではないのである。死があるおかげで生は実り豊かなものになり得る。生に期限があるからこそ、情熱的な愛があり得るのであり、芸術的創造があり得るのであり、勇気ある誠実な振る舞いがあり得るのである。但し、死が生を活気づける場合、死は思考の対象になっているのではない。ここが重要なポイントである。私は死を「考える」のではない。死は意識の奥に潜むのである。

♦ さて、死は取り消すことのできない出来事である。即ち死は無かったことにはならない出来事である。その意味で死は永遠である。但し死は普通の出来事とはまったく異次元のものである。死は存在の虚無化としていわば絶対的神秘なのである(そのことを感じる感度を持ち合わせている向きがどのくらいいるのかは分からないが)。

♦ そして死によって永久に封印される或る者の一生も、同様に永遠不滅の神秘的事実なのだ。

「或る者が〈生きた〉というこの深く闇に包まれた神秘的事実は、

永遠にわたってその者の路銀なのである。」

            (V. ジャンケレヴィッチ)

とすれば、生を蔑ろにすることはできないであろう。

個と全体

昨日はインターネット配信で、《最愛王のコンセール〜ルイ15世の宮廷音楽〜》 コルテ・デル・トラヴェルソ Vol. 7 を視聴した。

音楽史のことは知らないが、宮廷音楽には独特の合奏の妙があるようである。ともあれ、四人の演奏者のそれぞれが、達者な技巧のみならず豊かな個性を有するからこそ生み出されるアンサンブルを楽しむことができた。アンサンブル(全体)というのは個がその個性を捨てて画一化することで成り立つのではない。各々の個がその個性を深めつつ互いに息を合わせることでこそ、生き生きとした全体が生まれるのである。そんなことを考えた。

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事実と真実

♦ 少し前のことになるが、神奈川県の津久井

「やまゆり園の虐待調査、コロナに乗じて闇に?」

という記事を目にした。やまゆり園というのは今から4年前に凄惨な大量殺人事件が起こった障害者施設なのであるが、記事によると、昨年秋に新たに虐待の疑いが浮上したことで有識者による検証委員会が設置され、今年の5月に当委員会は中間報告書を提出した。ところが、報告書で長期にわたる虐待の疑いが指摘されるや、県側は唐突に検証を中止させたのである。

♦ その後、県は一転して虐待の検証を継続させることにしたらしいが、ここで検証というものについて門外漢ながら管見を述べてみたい。物事を隠蔽したりあやふやにしたりするのではなくて、きちんと事実を確かめることはもちろん大事なことである。ただ、科学技術を活用して犯人を特定するというような場合は別として、虐待などに関する証言にはどうしても主観が入り込む。目撃した事実をそのまま正直に語っている場合にも、証言には何らかの価値づけや意味づけが潜んでいると推測されるのである。しかし、だからといって証言は当てにならないというわけではない。むしろ、そうであるからこそ、証言は重要なのだと言うべきである。物事は必ず一定の観点から見られるのであり、検証者はそうした厳然たる現実を考慮に入れて結論を導かなければならないであろう。

♦ さて、私は今「ゴッホ 草木への祈り」という番組を録画で観ているのであるが、番組に登場した絵本作家・画家のいせひでこ伊勢英子)氏は、自分は「木の根と幹」が最も好きな作品であり、「カラスのいる麦畑」よりもずっと好きであると言う。根の力強さ、そして根を描いているゴッホの凄いエネルギー … 。いせ氏はこの絵に、命に対するゴッホの強い思いを感じ取る。彼女によれば、ゴッホの植物を見る眼は命を見る眼なのである。そしてそれは愛情を注ぐ眼であって、ゴッホの人の愛し方、神の愛し方もそれと同じなのである。

ゴッホの絵は命という人間よりも大きなものの〈真実〉を表現するものなのだ。虐待はよくないという道徳的説教よりも、命の真実に対する感受性を磨くことの方がはるかに重要なのではないだろうか。〈事実を求める精神〉とは別に、それとは異なる〈真実を求める精神〉があることを、私は今や改めて思い知る。前者は科学的精神であり、後者は芸術的精神であると言えるが、今後は益々芸術よりも科学が重視され勢力を持つ時代になってゆくのであろう。コロナ禍がこの流れに拍車を掛けることがなければよいのであるが。

* 写真は「木の根と幹」(1890)

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「ゲルニカ」と未完という問題

♦ 先日の日曜美術館「アートシェア 今こそ見て欲しいこの一作」を録画で観た。番組では10名ほどの美術関係者がそれぞれとっておきの一作をシェアしたのであるが、その中で横尾忠則氏はピカソの「ゲルニカ」(1937)を挙げた。この有名な作品については改めて説明するまでもないが、これはスペイン・バスク地方の古都ゲルニカが1937年4月26日にナチス・ドイツの空軍によって爆撃された(これは世界史上初の都市無差別空爆と言われる)ことを、当時パリいたピカソが知り、「スペインを苦悩と死に沈めた軍隊に対する憎悪を表現」するものとして描いたものである。死んだ子供を抱えて悲嘆に暮れる女性(左端)、血相を変えて逃げ惑う罪なき牛や馬、・・・は、写実的描写ではない故に却って、途方もない悲惨さを圧倒的な迫力で語りかけてくる。

ゲルニカの悲劇は我々日本人にとって異国のことであるが、我が国とまったく無関係の出来事ではない。しかしそれはともあれ、問題は権力者の卑劣で横暴な所業をピカソのように心の芯から告発する能力を我々は有しているのかどうかということである。否、それ以前に、そもそも我々は心の芯を持ち合わせているのかどうか、「言葉の自動機械」(宮台真司氏の用語)になってしまっていないかどうか、それが問題なのである。

「ふと思う なんだ、みんな同じことをいっていやがる」(太宰治「もの思う葦」)

♦ さて、横尾氏は番組の中で、この「ゲルニカ」という作品は今の世界的コロナ禍の時代と深く結びついていると思うと語ったのであるが、これが決してこじつけでないことは続く話から分かる。――この絵には横尾氏の心をとらえて離さない部分があるという。それは書き直しをそのままにしてしまったかのような牛の顔(絵の左上の部分)である。芸術家の話は直感的で飛躍があり必ずしも分かりやすくはないので、それを私の言葉で補いつつ紹介すると、書き直しをそのままにしてしまったということは、ピカソはその部分を書き直しつつあったということであり、つまりその部分は未完であるということであるが、「未完の部分は或る意味で未来を描いている」のである。どういうことかというと、後世の人間はその未完の部分を〈入り口〉にして、その時代に即した新たな解釈を行なうことができるのであり、つまり過去の作品は現在の出来事の予示となり得るのである。

♦ ところで、私の考えでは、未完ということは芸術というものに本質的なことである。即ち、優れた芸術作品は美術でも音楽でもみな未完の作品なのである。但しこの場合の未完とはいまだ完成に至っていないということではない。作品が未完であるということは、作者が何かを探究しつつあるということなのであり、そしてこの〈何かを探究しつつある〉ということこそは芸術の本質なのである。そうであるからこそ、ダ・ヴィンチの絵にしてもバッハの音楽にしても、後世の人々をして様々な作品解釈(演奏)へと駆り立てるのであり、あるいは後世の芸術家たちを魅惑して探究(=創造)へと導くのである。

しかし何かを探究しつつあるというのはどのようなことなのであろうか。(続く)

誠実と個性(承前)

 

♦ 検察官定年延長法案がもしかしてこのまま国会を通過してしまうかもしれない情勢なのであるが、私にとって何よりも耐えがたいのは、法案自体のことは別にして、権力者が然るべき理由なしに姑息なやり方で己れの権力の保持と拡大を図ることであり、また大方の与党議員や閣僚・官僚が忖度=損得勘定によってだんまりを決め込んでいることである。彼らは国を少しでもより良いものにしようという気持ちなど実は持ち合わせていないのではないか。国民のことなど本気で考えていないのではないか。口で何と言おうと私的利益という殻の中に閉じ籠ってしまっているのではないか。

♦ ところで、社会学者の宮台真司氏は或るところでほぼ次のように語っている。――昨今の日本人には損得に閉じ込められ、損得を越えられない「クズ」が多い。このことはグローバル化の潮流のさなかで個人を支えるべき共同体が日本では空洞化してしまっていることに原因があるのであるが、ともあれ、人々の政治への関心にしても多くの場合浅ましい損得勘定にのみ基づく故に、それはもっぱら失業率とか株価とかに向けられ、政治家や役人が嘘をつきまくることには向けられないのである。必要なのは正しい仲間づくり(これは共同体の復活ではない)である。仲間に恥ずかしい姿を見せたくない、仲間の恩義に報いたい、といった感情が、「個」を自立させるのである。――「損得で動く大人に育てるな!」

♦ 仲間がいれば、羞恥心を持つことができる。恩に報いるために身を犠牲にして戦うこともできる。つまり、私なりに言い換えると、損得を越えた超越的な価値に向かって自分を越えることができるのである。そして、先の投稿で述べたように、このような自己超越の運動が〈誠実〉ということの実現であり、この運動を通して形成されるのが各人のかけがえのない〈個性〉なのである。宮台氏は「個」の自立という言い方をしているが、ともあれ、人は基本的に誠実な生き方をすることによってしか本当の意味での個性personality / individuality たり得ないというのが私の主張である。保身や忖度に埋没し切った嘘つきには個性と言えるものは存在しないのである。

            *

♦ 念のため付言すると、私の言う「誠実」はサルトルの言う「くそまじめの精神」、つまり社会の秩序に無責任に「適応」する精神ではまったくないが、また単純なアウトローを指すのでもない。それは社会に対する微妙な距離を意味する。因みに、宮台氏は驚くべきことに、中学に入学した時点で既に、「実存が分からなければ社会は分からない」という感覚を有していたということである。映画を観る際も、ストーリーはそっちのけで、男の実存・女の実存、差別される者の実存・差別する者の実存・・・に反応したのであり、映画が描く権力や制度ではなくて、もっぱら劇中人物の体験に注目したのである。――「『正義から享楽へ』刊行記念インタビュー」

「科学者がいくら綿密に自然を研究しても、自然は元の自然のままであり、自分も元の自分のままである」(夏目漱石「中味と形式」)。しかし社会とかあるいは心理というものは、自然科学者にとっての自然と同様の純然たる客体なのではない。つまり人間社会や人間心理については、自然科学がそうであるような厳密な意味での客観的学問は原理的に成り立たないのである。「実存を通じて社会を見る」という方法に、私は学問的誠実さを感じる。

誠実と個性

♦ 昔高校生の時に少しかじったヒルティの『眠られぬ夜のために』(1935)の中に次のような一節がある。

「人間のあらゆる性質の中で最高のものは ≪誠実≫ Treue である。この誠実という性質は他のほとんどすべての性質を埋め合わせることができるが、それ自身は他のどんな性質によっても埋め合わせることができないのである。」

そう述べた後、ヒルティはこう続ける。

「しかし悲しいかな、この誠実という性質は人間にはかなり稀れにしか見られず、却って動物に頻繁に見られるのであり、実際のところこの肝腎な点で人間は動物を超えていないのである。」

♦ 更にヒルティは「感謝の念を抱く」ことも、高等動物と比べて人間においては稀れであると述べている。誠実や感謝の、巧妙な見せかけはよくあるかもしれない。しかし誠実にしても感謝にしても、本物は今日では稀れであるどころか、ほとんど失われてしまっているのではないであろうか。一つの象徴的な例を示すために、かつて梅原猛氏が新聞のコラム欄に書いた文章の一部を拝借することにする。

「私の六十年を超える学者としての人生においても、しばしば学者が表ではおべっかを言いながら裏では秘かに陰謀を試みたり、自分の欲望のために長年世話になった人を平気で裏切ったりするのを見て来た。」

♦ ところで、法隆寺金堂壁画を模写した鈴木空如(1873-1946)のことが先日の日曜美術館でも取り上げられていたが、古仏画の模写は極度の誠実(忠実)Treue を要求する故に、この画家に注目することで誠実ということについて考える緒が何か得られるような気がする。空如は誰かに依頼されたわけではないが高さが3メートル以上もある巨大な絵画をたった独りで実寸大模写したのであるが、紹介文に必ず書いてあるように、彼は画壇とは一切関わらなかった。展覧会にも出品しなかった。生涯を通じて地位も名誉も求めなかった。有名になろうともしなかった。――このような宗教的禁欲は極端で特殊な例であるが、事柄の本質をはっきりと示してくれる。前回の投稿(4/6)で私は自我(=自己愛)を問題にしたが、名誉欲などの自己愛を退けることこそが誠実であるための条件なのである。

日曜美術館では、「空如は無の境地で鉄線描を我がものにしていった」というナレーションがあった。鉄線描とは線に意味を持たせず、無になって均一な線を描き切る手法であるとのことである。邪念や怒りとか喜びとかといった感情があってはならないのである。――というわけで、誠実(忠実)とは自己愛を退け、無の境地に入ることによって実現されるものであると言うことができるが、ところで意味を持たせないように描かれた線とはどのような線なのであろうか。それは無意味な線なのではない。それはいわば人間的な意味(通常の感情)を超えた意味を帯びた線なのである。

♦ では、無になることによって誠実を実現するとはどういうことなのか。無になるということは自己愛が文字通り無くなってしまうということではない。そうではなくて、自己愛が変容するmetamorphoseということなのである。そして無になることによって誠実を実現するということは、何か超越的な価値に向かって自分が自分を超えることであり、つまりそれは自分というものが無くなってしまうことではなくて、本当の意味での〈自分〉が生まれるということなのである。本当の意味での〈自分〉とは、芸術活動などにおいて自分が自分を超える運動そのものなのであり、そしてそうした運動(誠実の実現)を通して作られてゆくのが各人のかけがえのない〈個性〉なのである。

自我は憎むべきものである―パスカル

 善と悪は対概念である。しかし私が経験したところでは、「善」は学生にとって殆どピンとこない言葉であった。ところが同じ抽象概念であっても「悪」は違う。恐らく多くの人にとって、悪は善と違って圧倒的なリアリティを持つのである。それはどうしてなのか。哲学的・神学的には善こそが最高にリアルなものなのであるが …

自死した犠牲者の痛ましい遺書が公表されたことで、(公文書を改竄させるという)自分たちの悪事を裏づける新たな事実が明るみに出されたのにも拘わらず、「再調査しない」と何ら躊躇することなしに言い切る。それはもちろん再調査されると大変なことになるからなのであるが、しかしそうである故に、「再調査しない」と言い放つことは自分たちの犯行を自白したも同然のことなのである。しかしながら権力者はそうしたことを気にも留めない。自分たちは決して逮捕されないと踏んでいるからである。

これほど冷酷で卑劣な人間はそうはいないであろう。とはいえ、自分の利益のことしか考えず、人を人とも思わぬこれと同類の人間は世の中のあちこちに存在するのではないか。我々は具体的な悪と具体的に戦うためにも、悪というものの根っこを探る努力をしなければならない。

さて、パスカルは自我には二つの性質があると言う。(なお、ここで言う≪自我 le moi≫は≪自己愛 l’amour-propre≫のことである。)

(a) 自我はそれ自身において「不正」である。というのも、自我はすべてのものの「中心」に成るからである。

(b) 自我は他の人々にとって「不快」である。というのも、自我は他の人々を「隷属」させようとするからである。各々の自我は他のすべての自我の敵なのであり、他のすべての自我に対して暴君であろうとするのである。

パスカルが言うには、我々は自我の「不快」な点(b)は取り除くことができるが、「不正」な点(a)は取り除くことができない。というのも、我々は他の人々に親切に振る舞うことによって自我(=自己愛)が他の人々を不快にすることは防ぐことはできるが、例えばそうした親切な振る舞いにおいても自我(=自己愛)の自己中心性は何の変化も受けないからである。但し我々は自我の自己中心性を取り除くことはできないが、それを「隠す」ことはできる。そして隠すか隠さないかは大きな違いであるが、より重要なことがある。それは自我の不正を憎むか憎まないかの違いである。

とりあえず以上を踏まえるとこうなる。

  • 悪の根っこは自我(=自己愛)に存する。
  • いわゆる悪人とは自我の不正を憎まない人間、「自我の内に己れの敵を見出さない」人間である。

パスカルの立場からすると、人間が人間という枠に留まる限りは決して自己中心性から脱することはできない。即ち我々が自我の不正から脱するにはイエス・キリストを信じるのでなければならない、ということになるであろう。しかし私はこうした門切り型の理解に満足することなく、稿を改めて自己中心性と自己超越性について別の仕方で考察することにしたい。

「肉は悲し」④

♦ よく晴れて青空が澄んだ昨日は、練馬区立美術館で開催されている「背く画家/津田青楓」の回顧展に出かけた。印象深かったのはやはり「犠牲者」(1933)だった。これはプロレタリア作家の小林多喜二(1903~33)の獄死(拷問死)に触発されて描かれたものであり、作者はこれを十字架のキリスト像にも匹敵するようなものにすることを望みつつ描いたとのことである。ただ、キリストの場合と多喜二の場合とでは、やはり犠牲ということの意味が異なるであろう。多喜二の犠牲は贖罪や復活の物語に連ならないが、しかしそれ故に却って純粋さと神々しさを感じさせる。

♦ この酸鼻をきわめる「犠牲者」には、人権を蹂躙する官憲への強烈な批判が込められていると解説にあるが、当時の官憲の強権ぶりは凄まじく、津田にしても警察によって検挙され転向を余儀なくされた。しかし古今東西を問わず権力欲は人間を腐敗させるものなのだ。権力欲に取りつかれた者は権力を誇示するために、また権力を維持し増大させるために、手段を選ばないからである。モラルの崩壊は必定である。昨今我が国で問題になっている官邸の赦しがたい嘘やごまかしもその一例である。

♦ しかし腐敗しているのは権力欲に囚われた者だけではない。権力者におもねり権力に与ろうとする者も同じである。ところで、「長い物には巻かれろ」式の奴隷根性は権威主義という形で学界にも蔓延している。研究者には既成の観念に≪根本的な≫疑問を抱くための志と気概が欠けている。つまり研究は受験勉強の延長でしかなく、業績は出世のための点数稼ぎでしかない。そう言っても恐らく言い過ぎではないであろう。論文には巧みな装飾が施されているが、真理や正義に対する責任感というものが感じられない。

しかしそれにしても権力というのは難しい問題である。そもそも何らかの権力なしには社会の秩序は成り立たない、つまり社会は成り立たない。やはり権力は必要なのである。また、権力者に歯向かえばそれでよい、あるいは権力欲を批判すればそれでよいというわけではない。権力欲を批判することそれ自体にも実は或る種の権力欲が働いていると言えなくはないのである。これは肉である人間の悲しさであるが、しかし権力欲は決して完全には乗り越えられないということを洞察することができるならば、我々は権力欲に自覚的になり、よって、必要な権力を見極め、権力を謙虚で健全なものに保つことができるようになるのではないであろうか。

「肉は悲し」③

♦ この前テレビのチャンネルを回していて「世界の子どもの未来のために」という番組に偶然出会った。カンボジアのスラム(寺院の敷地につくられたあばら家)に住む8歳の少女。父親が亡くなったため毎日、しかも朝5時から1日中働かなければならない。そうしなければ家族が食べていけないのである。危険な蓮沼で蓮の葉と実をバケツに入れ、それを街まで売りに行く仕事はかなり過酷である。しかし大好きだった父親が貧乏故に点滴を受けられずに死んでしまった大きな〈悲しみ〉は、学校にも通えていない8歳の少女に俗心と無縁な純真な夢と希望を抱かせる。

「大人になったら病気になった人たちを治療したい。」

「お医者さんになりたい。」

悲しみは無垢な希望を育む。悲しみは心を浄化するからである。そして清らか希望はそれ自体が清らかな喜びなのであり、そうであるからこそ、それは厳しい現実に耐えることを可能にするのである。

♦ 子供の夢に幼稚さを見ることは容易である。しかし健気な子供を見て大人はむしろ己れの不純さを恥じるべきではないのか。多くの大人が自分の堕落に気づきそれを悲しまない限り、社会問題としての貧困(極度の格差)の根本的な解決はあり得ないであろう。

♦ ところで先日、バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」のヴァイオリン譜(ペータース版)を買ってきた。この有名な曲はカンタータBWV147の終曲であり、原題はJesus bleibet meine Freude(イエスは私の喜びであり続ける)である。従って上記の邦訳名は英訳名の"Jesus, Joy of Man's Desiring"に倣ったものであると考えられるが、注目したいのは人の望みの喜びということ、つまり望みが喜びであることである。望みが叶うことが喜びなのではない。そもそも望みを抱くこととは別に望みが叶うことがあるわけではない。望みdesiringそれ自体が喜びjoyなのである。そのような望みが存在するのだ。(デカルトやカントの言う「善なる意志」もそのような望みに相当するであろう。)

♦ そして加えて言うと、この喜びの歌を弾いたり聴いたりしていると何とも言えない悲しさが迫ってくる。別にキリスト教の物語を信者のようにそのまま受け入れていなくても、贖罪主イエスと結びつくことの純粋な喜びと、それと裏腹の関係にある、全人類の贖罪のための十字架刑の悲しさとを、音楽の力によって同時に感じ取ることができるのである。実は悲しさなしには喜びはない。楽園から追放される以前のアダムとエヴァには、労働の苦しさや死の恐怖はなかった。およそ不幸はなかった。従って彼らは悲しさを知らなかった。しかしそれ故に喜びも知らなかったのである。

♦ いつの時代でも多かれ少なかれそうだったのであろうが、今日では宗教はかなり堕落してしまっているのではないであろうか。個人的経験に基づいて言うと、自分の惨めさに気づかない故に悲しむことを知らず、口ばかり達者で(内心では)人を見下しているキリスト教徒は決して少なくないのではないか。

「肉は悲し」②

 

♦ 昨日は昼下がりに「セタガヤクォドリベット第5回演奏会」を聴きに出かけた。立錐の余地もない満席の会場で演奏されたのは、バッハのカンタータ4曲とモテット1曲であった。実は曲目の内容からして途中で退屈するのではないかと心配していたのであるが、どうしてどうして、2時間があっという間に過ぎてしまった。熱のこもった、しかも本格的な演奏に圧倒され続けたからである。

♦ どの曲も感動的だったが、前もって期待していたカンタータ第46番《目を凝らしそして見よ、かつてこれほどの痛みが》の第1曲は案の定すごかった。神の裁きによるSchmerz(痛み・悲しみ)を歌う合唱は聴く者をそれこそ震撼させるものであった。

♦ ところで、話は大きくなるが、このSchmerzぬきにはキリスト教はあり得ないということをここで強調したい。そもそも十字架は極度の苦悩を表すのである。キリスト教は、私に言わせれば、悲しみこそが幸いをもたらすことを教える宗教なのである。宗教のことはよく知らないが、このことに関して今度改めて論じてみたい。

 

  悲しみなさい、嘆きなさい、泣きなさい。

  笑いを嘆きに変え、喜びを悲しみに変えなさい。

  主の前にへりくだりなさい。

  そうすれば、主はあなた方を高めてくださいます。

            (ヤコブ書)

「肉は悲し」①

 

♦悲しみを知る者は決して戦争を起こさない。戦争を起こすのは悲しみを知らない者である。悲しむことができない者は謙虚であることができない者であり、人を尊重することができない者であるからである。ところで、悲しみは必ずしも喜びの反対物ではない。悲しみは必ずしも陰気な感傷ではない。愛の絆である悲しみも存在するのである。

♦元旦の日に柳宗悦の「妹の死」を読んだ。これは日本政府による三一独立運動弾圧を念頭に置いた「朝鮮の友に贈る書」(1920)が書かれた翌年に発表されたものである。柳の妹は6人目の子供を出産後まもなくして30歳を過ぎたばかりで亡くなったのであるが、女中たちなども含めた家族の一人ひとりに優しい別れの言葉を遺しながら死にゆく場面、そしてそこに流れる厳かな時間は、実に印象的である。しかし死に際が美しかったのは、故人が美しく生きた人だったからに他ならない。

「妹は正しき事を愛した人間であった。疚しい事や、歪んだ事や、心暗い行いを非常に嫌った。彼女は汚れていない光の多い真直な道をと選んで歩いた。」

このことに誤りがないと柳は言う。

♦しかしこのような妹を失った彼の悲しみはどのようなものだったのか。

「おお悲しみよ、汝がなかったなら、こうも私は妹を想わないであろう。愛を想い、生命を想わないであろう。・・・ 悲しみこそは愛の絆である。おお、死の悲哀よ、汝よりより強く生命の愛を吾れに燃やすものが何処にあろう。悲しみのみが悲しみを慰めてくれる。淋しさのみが淋しさを癒やしてくれる。」

♦特に注目すべきは、「死の悲哀」よりも強く「生命への愛」を燃やすものはないという逆説である。この逆説は、人間は自分が悲惨であることを知ることにおいて偉大であるというパスカル弁証法を彷彿させる。