♦公益通報を行なった兵庫県の元県民局長が、24年7月に自死された。
3月末に記者会見の場で、デマによるハラスメントが斎藤知事によって行なわれ、続いて違法な内部調査、そして不当な懲戒処分が行なわれたのである。
しかし加害者である斎藤元彦は8月に何と、「どうして文書まいたんだ、悔しい…」と口にしたのである(毎日新聞)。悪いことをしてしまったという思いがまるでないのである。
♦このことは実は必ずしも驚くべきことではない。ヴェイユは――かのソクラテスの説を引き継いで――「人は悪を為すとき、悪を認識していない」と言う。斎藤元彦は自制心のない幼児のごとく、ひたすら復讐心に駆られて、人を自死に至るまで追い詰めるという加害行為、つまり悪を、悪と認識せずに為してしまったのであり、そして未だに悪に没入しているのである。「悪は、人がそれに浸っているとき、悪として感じられずに、必然として、あるいは義務としてさえ、感じられる」とヴェイユは言う。
♦それに反して、無実の被害者の方は、「悪を苦しみとしてしか認識することができない」。
「無実の人間こそが、地獄を感じることができるのである」。
♦このように、「悪は犯罪者の魂に住んでいるが、その魂には感じられない。悪は罪のない不幸な者の魂に感じられるのである」。ところが、恐ろしいことが起こる。「雌鶏たちは傷ついた一羽の雌鶏に飛びかかり嘴でつつく」という動物の世界に起こることが、人間の世界でも起こるのである。即ち、我々の理性はあらゆる軽蔑mépris、あらゆる反感répulsion、あらゆる憎悪haineを〈犯罪〉に結びつけるのであるが、我々の動物的な感性は、軽蔑や反感や憎悪を〈不幸〉に結びつけるのである。つまり、犯罪者ではなくて罪なき被害者の不幸が、軽蔑や反感や憎悪の対象になってしまうのである。
♦そして、更に恐ろしいことに、この動物的感性の法則は自分自身が不幸な者である場合にも適用される。即ち、件の軽蔑や反感や憎悪は、「不幸な人間において、自分自身に向けられて魂の中心にまで浸透し、そこからそれらの毒々しい色彩で宇宙全体を染め上げる」のである。
♦こうした洞察を、ヴェイユは特に旧約聖書における義人ヨブを例にして行なっているのであるが、罪のない被害者が自死しなければならない原因を考える上で、一つの参考になるであろう。
特にいじめの被害を被った小中高生の自死は深刻な問題である。
















