♦『兵庫県政問題(言論篇)』――表紙に「選挙で選ばれた行政の長は何をしてもよいのか」とある――の共著者はツワモノ揃いである。それぞれがユニークな個性であり、かつ一匹狼である。彼らは記者会見などでお互いに顔なじみであるとしても、また一緒に仕事をすることがあるとしても、決して群れることのない自由な個人である。
♦こうした6人の著者は、安全な書斎の中でまことしやかな説明や分析を行なう学者と違って、まさに社会に身を挺し現場で戦う人たちであり、斎藤信者やN党信者などが次々に放ってくる毒矢に刺されることをも恐れない人たちである。
♦しかしそれにしても、どうして彼らは、まともな会話もできない驚くほど頭が悪く思考力ゼロの、しかも平気で噓をつく卑怯者の権力者と、記者会見で直接対峙する度胸と忍耐を持ち続けることができるのであろうか。
その点に関してであるが、本書第6章「歩道橋のとなりで」の最後のところで、つまり本書全体の結びのところで、菅野完氏は興味深いことを書いている。
♦324頁以下において菅野氏は、「憎まれる覚悟」、罵られる覚悟、
「権力を記録に縛りつけるというあの面倒な機能」、「逃げようとする権力に言葉をぶつけ続けるという、あの面倒で地道で誰にも褒められない機能を、それでもなお引き受ける覚悟」
といったように、覚悟ということを強調している。
しかし言論人として「権力の批判的検証をどんな暴風雨の中でも放棄しない」覚悟を、本当に保持し続けることができるのか・・・。著者は「吹き荒れる暴風雨の中で戦慄して立ち竦んでしまう。」
♦しかしそれでも会見場にいく。そこでは、本書に集う共著者各位が、そして歩道橋から聞こえるプロテスターたちの声が、「今日も、選択を間違えるなよ」と問いかけるのだ。
本書の末尾のこの件りは、私から見ると、少し格好良すぎる。決まり過ぎている。これは著者の美学なのであろう。しかし真実を射貫いていることは間違いない。
♦さて、覚悟というのは個人の内なる決意である。孤独とは何であるかを知っている者のみが、真に覚悟することを知っているのである。しかし覚悟のある人間こそが、つまり孤独を知る人間こそが、周りからの問いかけを、みずからの支えにすることができるのだ。――この〈逆説〉が、私が最も問題にしたいことである。
孤独とは何であるかを知らないが故に、他者との真の共存を知らない人間が多すぎるのではないか。

















