2017-01-01から1年間の記事一覧
どうしてデカルト研究者はデカルトの問題性を摑めないのか。それはデカルトの哲学を「紹介・解説する」(しかも決まり切った仕方で)からであり、「みずから哲学する」ことをしないからである。 徒な思弁に耽らずに、みずから哲学するならば、『方法序説』第…
私は学生時代から、研究書や研究論文の焼き直しのようなことはまったくしなかったが、パリでデカルトと格闘することで、この態度を決定的に固めた。いくら情報的知識を寄せ集めても哲学は決して分からない。みずから事柄そのものに触れつつ思考しなければ哲…
都立大哲学会と倫理問題 ――発会六十周年を迎えて―― 実川 敏夫 ♦ 他の学会のことはいざ知らず、せめてこの都立大哲学会だけは、哲学会という名に恥じることのない、品格dignityのある学会であってほしいと常に願ってきた者として、私は本学会の運営に対して、…
デカルト研究者でさえ、デカルトの問題性を摑めていない。 否、デカルト研究者はデカルト研究者である故に、デカルトの問題性が掴めないのである。 本ブログの最初の記事(2016.9.12)でも関連することを述べたが、 哲学研究は学問的であろうとすればするほ…
繰り返し述べたように、 デカルトの問題性が摑めなければメルロ=ポンティは分からない。 但し、デカルトの問題性を的確に摑むことはそれ自体非常に難しいことである。 実際、デカルト研究者--彼らは基本的に哲学史家であって哲学者ではない--からして、…
メルロ=ポンティの哲学は単なる心身合一の立場ではない。 デカルトには「心身の区別」と「心身の合一」という二つの面があるが、メルロ=ポンティはこのデカルト的二面性を引き受けているのである。 (但し、これら二つの面がどのように結ばれるのかがまさ…
私は在外研究で、ジャン・マリー・ベイサード教授(パリ大学第十大学)の授業に参加しつつ、教授の主著『デカルトの第一哲学:形而上学の〈時間と整合性〉』をノートをとりながら繰り返し繰り返し読んだ。 その間、考え続けたのはもっぱら「デカルトの循環」…
メルロ=ポンティのデカルト論をいくら読んでもデカルトは分からない。 しかしデカルトを読めばメルロ=ポンティは分かる。 というより、デカルトの問題性が掴めなければメルロ=ポンティは分からないのである。 これが1986年度におけるパリ大学での在外研究…
繰り返し述べたことであるが、「デカルトの循環」と呼ばれる循環は循環論法の循環ではない。というのも、それは超越関係における循環だからである。 ところで、循環は超越関係における循環であるということは、この場合の超越関係とは循環関係であるというこ…