自我の確立のないところに、真実の道義や義務や責任の自覚は生まれない(坂口安吾)

自民党最大派閥の安倍派の裏金問題がこのところさかんに報じられているが、考えるべきことは、例えば政治倫理綱領のようなものによって議員が本質的に、即ち人格的に倫理的になることはあり得ないということである。

そしてもう一つ考えるべきことは、問題となっている裏金が派閥の組織的犯罪であることが物語っているように、党派というものは大きな弊害をもたらす悪であり得るということである。

坂口安吾は敗戦後まもなくして書いた「咢堂小論」(1945.12)の中でこう述べている。

「日本に必要なのは制度や政治の確立よりも先ず自我の確立だ。本当に愛したり欲したり悲しんだり憎んだり[する]、自分自身の偽らぬ本心を見つめ、魂の慟哭によく耳を傾けることが必要なだけだ。自我の確立のないところに、真実の道義や義務や責任の自覚は生まれない。」

♦求道者である安吾の言う自我の確立とは、自我というものをよく見つめることである。自分の偽らぬ本心を見つめることであり、自分の魂に忠実であることである。そして、このようにして自我を確立しない限り、即ち真に自分が自分自身であるのでない限り、倫理とかモラルというのは、いくら美しく立派な言葉を並べたところで所詮は偽善でしかあり得ない。

♦ところで、こうした自我の確立(自分が自分自身であること)を妨げるのは、(己れのアイデンティティの根拠を閥や党に求める)党派根性なのであるが、安吾が言うには、「閥とか党派根性というものは日本人の弱点」であり、この弱点によって日本の成長と発展が妨げられてきた(例えば、先の戦争の元凶の一つは、次第に勢力を伸ばし暴挙を振るうに至った軍閥に存した)のにも拘わらず、敗戦後、日本人の党派性は激化した。例えば、魂の拠り所を見失った学徒や復員兵が政党運動に走ったりしたのである。

安吾が言うように、政治というのは常により良いものに取り換えるべき生活の道具に過ぎない。

今回のことでもし安倍派が自滅し、そして更に自民党の長期政権が終焉するのであれば、それは議会政治を健全化させ独裁政治による戦争を防ぐ上で大いに望まれるところである。