三木清「語られざる哲学」(1919) (3) 「罪と悪、寂しみと悲しみ、それらは・・・秀れた魂が到り得る人生の本然においてでさえ見出されずにはいられないもののようである。」

♦前稿で触れたラッソの「ペトロの涙」であるが、私は特に最後の第21曲の詩に関して、イエスの怒りと悲しみは余りにも人間的であるという感想を抱いた。イエスは十字架上で次のように不平不満を吐くのである。

[最初の二行]・・・ pro te patior  /・・・ pro te morior

私はあなたのために(for you)苦しみを受け/あなたのために死のうとしているのだ。

[最終行]

あなたがこんなにも恩知らずであることに私は苦しめられているのだ。

 

♦私はこうしたイエスの人間的な苦悩をポジティブに、肯定的に受け取る。

もし仮にイエスが肉体的な外的苦しみのみならず、愛弟子の忘恩というそれよりもはるかにきつい内的苦しみにも平然と耐える、――というより、そもそもそうした苦しみを超越しているいわば超人だったとしたら、果たしてキリスト教という宗教は生まれたのであろうか。私はそう考えるのである。

肉であるイエスは、人間的な苦悩を人間以上に鋭敏にかつ深く感受し得たのである。そうであるからこそ、苦しむ人々を愛したのであり、また愛を説いたのである。

 

♦ところで、冒頭に掲げた「罪と悪」ではじまる言葉は、三木清の22歳の時の作である「語られざる哲学」からの引用であるが、イエス自身は決して罪を犯さず、悪を為さないとしても、(求道者であった坂口安吾の言葉を借りると)「いかなる犯罪も悪徳も犯しかねない罪の子という自覚」を人間以上に持ち得たのである。そうであるからこそ、偉大だったのである。神の子だったのである。

https://www.youtube.com/watch?v=mUcIBVCg9Vo