偶像崇拝と人間の傲慢

❤6日、府中の森芸術劇場のウィーンホールにて、メンデルスゾーンのオラトリオ 《エリヤ》 全曲を聴いた。

実に良かった!

youtubeなどでは決して得られない、生演奏ならではの感動を与えてくれた。聖書物語の面白さと、メンデルスゾーンの音楽の素晴らしさとが、まさに相乗効果を生み出していたのである。

ご招待くださった方にこの場を借りて感謝申し上げたい。

❤さて、この《エリヤ》では、預言者エリヤと、支配者および民衆の偶像崇拝との戦いが描かれているわけであるが、今現在イスラエルの一部で盛り上がっている狂気じみた国家主義ナショナリズム)は、恰も国家を神として崇拝する偶像崇拝であるように私には思われる。

偶像崇拝とは神ならざる者を神として崇拝することであり、言い換えれば神を人間のレベルに貶めることである。しかし、神を人間の水準に引き下げることは、実は人間がみずからを神と同じ水準に引き上げることなのであり、つまり人間が〈傲慢〉の罪を犯すことなのである。

一神教の神はその徹底的な超越性の故に、偶像idolのように現前することはあり得ない。しかしとはいえ、神はやはり現前(臨在)するのでなければならない。もし神は如何なる意味でも現前しないのであれば、人は〈絶望〉に――ニヒリズムに――陥るのである。

シモーヌ・ヴェイユはいみじくも、「神は不在という形でのみ被造物の内に現前し得る」と語った。

神は現前(臨在)し得る。そうでなければ人は絶望に陥る。但し、神はあくまでも不在という形でのみ現前し得るのである。居ないという仕方でのみ居るのである。

❤因みに、芸術は見えないものを見えるようにするとよく言われるが、厳密に言うと、見えないものを見えないものとして見えるようにするのである。

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淡野弓子氏による解説文、「一神教偶像崇拝~エリヤ出現の背景~」の末尾にこうある。

「エリヤの物語を古えの異国のものと捉えたくはない。行く末の分からぬ現今の世界情勢の只中で、偶像崇拝、狂信の恐ろしさを黙考し、真なる神への信仰を率直な響きで伝えたい。」