人間の尊厳について (2)

♦ 今、報道では自民党総裁選の話題で持ちきりのようであるが、さぞかし党内ではさもしく卑小な政治家たちが、生活困窮者対策など喫緊の課題をそっちのけで見苦しい権力ゲームに没頭しているのであろう。ここで、椅子取りゲームに熱中している彼らに是非言って聞かせたいことがある。それは、

   「一人でもいい、他人を幸福にし得ない人間が、

    自分を幸福にし得るはずがない」

ということである。このことに心底同意できない者は権力を手にする資格はない。

 

♦ 上の言葉は福田恆存の『私の幸福論』(1956年)のあとがきにあるものであるが、本書で福田は、

   - 戦後、日本人は信じる力を失った

   - 信じるという美徳をぬきにしては幸福は成り立たない

ということを述べている。

信じる〈力〉とか、信じるという〈美徳〉という言い方は、この場合の信じるということが軽信や盲信から区別されることを意味するわけであるが(疑う力を持たない者は信じる力を持たないと言えよう)、福田は以下のように語っている。

 

♦ 我々は誰をも信じるというわけにはいかない。例えば自分を不幸な目に遭わせている人間、自分に不快な思いをさせている人間を<直接>信頼することはできない。我々はそうした人間と戦うであろう。そして戦う以上、負けるかもしれない。自分の不幸な状態を少しも改善できないかもしれない。しかしそうであるとしても、我々は(自分より大いなるものである)人間というものを信じていなければならない。ということは、最後には(人間より大いなるものである)神を信じるということである。

 

♦ 福田の考えを整理すると次のようになるであろう。――自分や人間を超える大いなるものへの信仰があるならば、即ち自分が自分より大いなるものと結びついているという確信があるならば、そのことで不幸の原因と戦う力が湧いてくる。戦いは孤独な戦いではないのだから。しかも自分の幸福=自分一人の快楽だけに拘るということがなくなる(この点が重要である)故に、たとえどんなに不幸な目に遭わされていても、自分を不幸とは思わずに幸福であり得る。逆に、自分より大いなるものを信じることができないならば、戦いは自分だけのための自分だけによる戦いであることになり、従って負けは許されず、何が何でも勝たなければならなくなる。そしてたとえ戦いに勝利して幸福を得たとしても、改めて自分の孤立を確認するだけで、心の底に潜む不安の念に相変わらず脅かされ続けることになる。心の平安、静かな幸福からかけ離れたこのような幸福は、幸福の名に値しないであろう(続く)