自由の諸相――(2) 自由と制約 その1

 

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♦ 国会での質疑で、答弁に立った官僚に対し総務大臣が背後から「記憶がないと言え」と指示したという報道が先日あった。無意識で口に出たそうであるが、権力が自己目的化し権力のための権力でしかなくなってしまうと、このような醜悪なことが起こるのである。

 

♦ しかし愛するとか信じるという関係が完全に排除され、支配-被支配の力関係しか存在しない世界に、果たして自由は存在するのであろうか。人を見下し威張り腐ることしか能のない権力者はやりたい放題のことをやるわけであるが、自由とはやりたい放題できることなのであろうか。例えば他人の自由は確かに自分の自由を制限する。しかし厚顔無恥で傍若無人な人間は本当に自由を満喫しているのであろうか。むしろ、或る種の制約があってこそ自由は自由たり得るのではないであろうか。

 

♦ さて、前稿(3日3日)では、すべてを必然性の相のもとに[=永遠の相のもとに]観る――「観ずる」――ことと、それに伴って生まれる自由について述べたが、今度は実践的な vision / voir ――これには「見る」という字を当てることにする――と、それが行使する自由について論じてみたい。

 

♦ 我々の眼というのは言うまでもなく何かを見るため器官である。しかし眼は同時に、見ることを制限する障害でもある。どんなに視力のよい人であっても自分の背中や物の裏側を見ることはできないし、遠くの家は近くの家と比べて小さくしか見えない。というのも、眼は我々の身体の一定の場所に位置し、また身体は世界の中の一地点を占めるからである。ところが不思議なことに、我々は実際の風景とは異なる、欠けた部分のある風景、あるいは変形された風景を見ているとは思わない。そうではなくて、現実の風景そのものを見ていると思うのである。それはどうしてなのであろうか。

 

♦ それでは、もし仮に自分の背中や物の裏側を見ることができるし、遠くの家を近くの家と同じ大きさに見ることができるようになったとすれば、つまり眼が持つ制約が取り払われたとすれば、それは自由の増大を意味するのであろうか。否、それはむしろ風景が現実味を失ってしまうことを意味するのではないであろうか。(続く)

 

★写真は近所の江古田の森公園