三木清「語られざる哲学」(1919)  (2) 真に生きるということ

 

 

♦私は昨年の夏まで或る哲学会の委員長を務めていたのであるが、数名の運営委員(色々な大学の哲学教授)たちは皆、運営に関わる或る根本的な問題に関して議論をしようとしない(議論をさせない)という態度をずっと貫いた。具体的な話は省略するが、そのことで私は、哲学あるいは哲学研究は心の純粋さとはまるで関係のない営みであるということを、元々分かっていたことではあるが改めて思い知らされた。

しかし哲学は断じてそういうものであってはならない、――という強い思いが、三木清を最初期のものからじっくりと読んでみたいという気持ちを私に起こさせたのである。

 

♦さて、懺悔としての語られざる哲学は、「自己の心情の純粋を回復せんがため」の企てであるが、心情の純粋を回復するということは、過去を食い尽くして初心に帰るということである。そこで22歳の三木は自分の半生を回顧してその清算書を作ることを要求されるのであるが、その際、自分が何を持っているか、また何を持っていないかを「正直に」認識なければならない。「本当に正直になりうるか否か」に、「虚栄心を破壊する」ことができるか否かが、つまり心情の純粋を回復することができるか否かが、かかっているのである。

 

♦人は殊自分のことに関しては、他人に対してだけではなく自分自身に対しても、なかなか正直になれないものである。正直であるつもりであっても、実は本当に正直であるわけではない。虚栄心は根強いからである。しかし三木が言うには、「真に生きる」ことは虚栄心を破壊することから始まるのである。虚栄心を破壊し心を純粋にすることによって、人は真に生きる者となり、「生命の泉」――この言葉は「語られざる哲学」の第七節に出現する――から生命を汲みとる者となるのである。

 

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写真はJan  van Eyck - Fountain of Life