高橋和巳「孤立無援の思想」(1963)を読む (10) 

♦ 「人間にとってもっとも汲み尽くしがたいものは人間であり、人間の精神である。」――長文のエッセイ「暗殺の哲学」はこの言葉をもってはじまる。

高橋は司馬遷の『史記』の刺客列伝(ここには五人の人物が登場する)を読み返すことから、テロリズムについての考察をはじめるのであるが、「とらえがたい人間精神への、一種畏怖に似た歎息は増すばかりだった」というのが、刺客列伝を読み返した高橋の感想である。今の人々は心の闇といったような言葉を軽々しく用いるが、「容易に究めつくせぬ人間精神の深淵」に畏怖する文学的感性を具えている人は、この科学全盛の時代に果たしてどのくらいいるのであろうか。

♦ 話がそれるが、先日の安倍暗殺事件に関して、容疑者の生い立ちや犯行動機が巷で色々取りざたされているようであるが、そのような中で或る犯罪心理学者は、専門家を名乗る人たちの無責任な情報がNHKなどのメディアにおいて流れ続けてきたことに対して警鐘を鳴らしつつ、勝手なストーリーを作るのではなくて、「分からないことを分からないこととする」のが本来の専門家であると述べている。確かに学問scienceというものは厳しい自制を要するのである。しかし、それはそうとして、そもそも容疑者の心は原理的に言って、心理学や精神医学などの学問scienceによって客観的に認識できるものなのであろうか(これは診断-治療とは別の問題である)。

♦ そういえば、菅野保氏のyoutube動画 「内心の自由の重要性、あるいは「お前ら、心の話しすぎやねん」問題」 は、私にとってとても興味深かった。菅野氏は、「心理分析の内容など、どこまで行っても客観的事実にはなり得ない」と言うのであるが、これは言い換えれば、容疑者の内的動機は学問scienceによっても客観的に認識され得るものではないということであり、即ち、心とか精神というものはそもそも(例えば脳のような)純粋客体ではないということなのである。

♦ ついでに菅野氏の話をもう少し紹介すると、氏によれば、1客観的事実にはなり得ないものを公共の伝播に乗せることはプライバシーの侵害であり(報道すべきは安倍氏が広告塔になっていた統一教会への恨みが動機であるということまでである)、2「不遇な幼少時代を過ごした人たちは、歪んだ特権意識を持つようになりがち」といった類いの分析はステロタイプ的偏見・差別を生むだけであり、3事件を心の問題にすることは社会問題をなおざりにし、事件を風化させることである。・・・

♦ 「暗殺の哲学」に戻ろう。高橋はこう書いている。「司馬遷はなぜ暗殺が行われ、それが政治の力学の中で、どういう役割を果すか、あるいはどういう役割しか果せないかを、すでにある程度解答しているが、刺客列伝の投げかける問題の重さは、その解答をはるかに上廻っている。いやむしろ、司馬遷の史家としての卓越は、その解答よりも、究めがたい人間精神の謎から発する五つの微光のように、この五人の行動を解答しつくしがたい問いののままに投げ出した点にあるともいえる。」――

「問いのままに投げ出した」ということは、ポジティブな意味で言われていることに注意しなければならない。「人は問うことの絶対性以外の絶対性を本来必要とはしない」と、高橋は「葛藤的人間の哲学」の中で語っていた。