悲しみが魂のふるさとである

♦5日に日本福音ルーテル東京教会にてアンサンブル・ポエジア・アモローザの公演、

Piangete occhi. 瞳よ 涙を流せ 〜17世紀イタリアの宗教的な歌

を聴いた。

演奏者のめいめいが思い切り表情豊かに歌っていながら、ソプラノ、コルネットヴィオラ・ダ・ガンバ、テオルボという異質な四つのパートが見事に調和しあい融合しあっていたのが印象的だった。

 

♦ソプラノの高橋美千子氏が8曲の歌詞を訳されていて、それを改めて読んでみた。

訳者はもしかして、「彼女の美しい瞳から涙が流れ」という句があるフレスコバルディの『十字架の下のマグダラのマリア』に、つまり「聖と俗の両方を兼ね備えたマグダラのマリアのキャラクター」に、特に関心を持っておられるのかもしれないが、ともあれ、聖書が当然のごとく語っていない、聖母マリアマグダラのマリアのemotionが、17世紀のイタリアにおいては音楽でも絵画(カルロ・ドルチ「悲しみの聖母」)でも赤裸々に表現されるのである。この場合、emotionの表現はemotionの創造であると言えるかもしれない。

 

♦歌詞を読んで私が注目したのは、サンチェスの『聖母の嘆き』にある「十字架の傍らにあなたとともに立ち/分かち合わせてください/涙して悲しむことを   いと清き乙女のなかの乙女よ/私を退けずに/どうか貴女とともに嘆かせてください」という句である。

センチメンタリストの濁った涙とは異なる、聖母の透明で深淵な涙・嘆きpiantoにあずかることは、魂のふるさとに還ることであり、それ自体救いの道なのである。