三木清「語られざる哲学」(1919)  (4) 絶対にへりくだる心と、そこから出たよき行為とのみが、雄弁に弁解することができる。


♦自分の非を決して認めない政治家を見ると特に分かるように、権力を第一義とする政治的な人間(政治家とは限らない)は、口で何と言おうと、謙虚な気持ちになるということができない。つまり反省するということができない。というのも、傲慢に振舞うことは自分の力を誇示することであるが、謙虚な気持ちになって反省することは自分の過ちと弱さを自他に露呈させることであり、従ってそれは己れの生命線である強さをみずから否定することであると、そのように思い込んでしまっているからである。しかし果たして謙虚さは弱さなのであろうか。

 

♦謙虚というのは卑屈とは違う。卑屈とは強者とされる者に阿る態度であり、いわば逆立ちした傲慢であるが、謙虚はそうした卑屈や傲慢のように処世の次元に属するものではなくて、自己の内面に奥深く入り込む勇気なのである。三木青年が言うには、謙虚な心とは瞬きせずに自分自身を見詰めて恐れることのない心であり、それこそは強い心なのである。(逆に言うと、傲慢な心は弱い心である。)

 

♦我々の悲しい運命は我々を罪悪に陥れずにはおかない。しかしそうした罪悪そのものよりも、それを「小賢しい智恵を弄して弁護し弁解しようという傲慢な心」こそが真に罪悪と言われるべきものなのである。そのように述べた後、悪知恵を働かせて弁解する人間の醜さを表わすために、三木はゲーテの『ファウスト』(「天井の序曲」)から、メフィストフェレスが人間を嘲笑って言う言葉――「人間は理性をどの獣よりも獣らしく振舞うために使う」――を引用する。

 

♦姦しい弁解は人を説得し切ることはできないし、また自分の心に平安をもたらすこともできない。

 

「弁解は知能や弁舌においてではなく、ただ精神と行為とにおいてのみ成功するところのものである。絶対にへりくだる心とそれから出たよき行為とのみが雄弁に弁解することができる」。三木清