2019-01-01から1年間の記事一覧

美と超越――花の美しさ

♦ 人間は誰でも必ず過ちを犯す。しかし過ちを犯してその醜さが露呈してしまう人もいれば、たとえ過ちを犯しても決して醜くない人もいる。いや、美しい人さえいる。しかし今の世の中に、できる限り美しく生きることを無意識的にであれ心がけている人は一体ど…

ラモーの『プラテ』――「人間・この劇的なるもの」

♦ 昨日はフランスバロック・オペラ『プラテ』を観に池袋のBrillia HALLに出かけた。ジョイ・バレエ ストゥーディオの上演を観たのは一昨年の『レ・パラダン』に続いて二度目である。バレエも歌もすべて日頃の修練を感じさせる見事なものであったが、今回は特…

バッハと踊り、そしてメルロ=ポンティのこと

♦ 昨日の昼下がりは、「古楽の調べ」という催しに参加するために西国分寺に赴いた。チラシに、「バッハのメヌエットは、どのような踊りだったのでしょう?」とあったからである。取り上げられたのは、バッハのメヌエットそのものというより、バッハにおける…

『ハノン』と個性の問題

♦ 以前テレビでピアニストの伊藤恵さんが音階練習の『ハノン』について、この教本は「自分はどのような音を出したいのか」、「自分にとって感動する音というのはどのような音なのか」を「探す」のにとても役に立つものではないか、というようなことを話され…

政治の問題と魂の問題

♦ 己れの魂に無頓着な人間が権力を持つと必ず権力に溺れる。このことは政治の世界に限らずどこにでも見られることであろうが、そのような人間にとっては自分の権力(歪んだ自尊心)を守ることだけが重要なのであって、事実などどうでもよいのである。――例え…

根本的両義性(13)――アガペーとエロス

♦ このところずっと日本と韓国との関係が大きな問題になっているが、報道に接してつくづく思うことことは、日本政府の韓国政府に対する対応と、アメリカ政府に対する対応とが余りにも違うということである。日本政府は両国政府に対して、できるだけ対等でフ…

解釈と理解

♦ 昨日は『亀井由紀子特別公開レッスン』を聴講するために目白のソルフェージスクールまで出かけた。亀井氏はかつてヤッシャ・ハイフェッツの助手を務めたヴァイオリニストであるが、決して偉そうに威張らない方である。楽器を構える姿勢は凜としていて、ど…

大竹まこと著『俺たちはどう生きるか』――強者にはならないという生き方

本書は著者が古希を迎えて上梓した小さな自伝とも言えるものであるが、ひとことで言うと、著者の「優しさ」の秘密をそこから読み解くことができる本である。 ♦♦ 大竹氏は二〇歳から二年半、風間杜夫氏と一緒に住んでいたのであるが、ある日二人は麻雀で負け…

根本的両義性(12)――音楽と狂気

♦ 昨夜は「Folia スペイン、ポルトガル15世紀から伝わる情熱と狂喜の音楽」と題された演奏会に出かけた。プログラムの最後の方、コレッリのヴァイオリン・ソナタ「ラ・フォリア」の前あたりで男性のフラメンコ・ダンサーがサプライズ的に登場し会場は大いに…

根本的両義性(11)――bodyとnobody 池田晶子をめぐって

♦禅宗に「父母未生(ぶもみしょう)以前」という言葉がある。私は小学校の何年生頃からだったか、時々不意に、「自分はどこから来たのか」という茫漠とした問いに襲われたのであるが、この問いにおける「自分」とは父母未生以前の自分(自分の父母が生まれる…

フランクル『夜と霧』――「人生の意味」という問題

♦ 生きる意味があるということは、生きることに何か目的があることである。まずはそう考えることができる。例えばオリンピックでメダルという名誉を獲得することを目的に毎日練習に励んでいる選手は、練習の辛さや本番に関する不安が常にあるとしても、大き…

言葉のリズムと言葉の力

♦ 昨日の午後はオルフ祝祭合唱団演奏会を聴きに中野ゼロに赴き、生演奏ならではの醍醐味を味わった。曲目はオルフの「カトゥーリ・カルミナ」と、ストラヴィンスキーの「結婚」。プログラムによれば、二つとも独唱・混声合唱・4台のピアノ・打楽器アンサンブ…

根本的両義性(10)――G.モローと神話の世界

♦ 私は1986年の3月にはじめてフランスの地を踏んだのであるが、向こうの寮に着いてから真っ先に訪ねたのはパリのギュスターヴ・モロー美術館だった。ただ、この画家に関して漠然とした関心を抱いていたとはいえ、当時は絵画をじっくり味わい色々考えをめぐら…

根本的両義性(9)――マリアの純潔(下)

♦ マリアは言った。 「主はその腕で力を振るい、 思い上がる者を打ち散らし、 権力ある者をその座から引き降ろし、 身分の低い者を高く上げ、 飢えた人を良い物で満たし、 富める者を空腹のまま追い返されます。」 (ルカ「マリアの賛歌」より) マリアは社…

聖週間のフランス・バロック宗教音楽

♦ 昨日は「聖週間のフランス・バロック~高橋美千子リサイタル」に出かけた。5人の器楽奏者(花井さん、丹沢さん、原田さん、島根さん、佐藤さん)の演奏も含めて、何か「完璧」という言葉を使いたくなるような演奏会だったのであるが、まずはプログラムの冒…

根本的両義性(8)――マリアの純潔(中)

♦ パリのノートルダム大聖堂の火災のニュースに接して、私は最初、フランスそのものが崩壊していくような錯覚を起こした。パリのノートルダムは私にとってまさにフランスの象徴であったということである。とはいえ、私は宗教というものを重んじているわけで…

根本的両義性(7)――マリアの純潔(上)

♦ 昨日の午後は小坂理江さん(歌、ハープ)と佐藤亜紀子さん(リュート)の演奏会を聴きに目白まで出かけた。 「悦びの園に音楽ありき-15世紀の音楽の愉しみ方」まさにこのタイトル通りの内容の、有益で楽しい演奏会であった。ここでは昨日のコンサートを想…

根本的両義性(6)

♦ 先日8日に、東京都庭園美術館で開催されている展覧会――『岡上淑子 フォトコラージュ 沈黙の奇蹟』――に出かけた。テレビでの紹介を偶々見たことがきっかけである。岡上のコラージュ作品はすべて戦後間もない1950年から56年までのごく限られた期間に、東京で…

根本的両義性(5)――受肉(下)

♦ 自分にとって不都合な発言を行なう者に対して、耳を傾けるどころか横柄な態度で発言を遮る人間の醜さは、例えば最近の首相官邸での官房長官会見において見られるが、しかしこの世にはそうした驕りたかぶる人間の醜さとまさに対極をなす美しさがある。十字…

根本的両義性(4)――受肉(中)

♦ 前の投稿では、魂の響きが〈肉〉耳に聞える音の響きとなることについて受肉という言葉を用いたが、受肉とは本来、「ロゴスが肉となった」(ヨハネ福音書)ことであり、即ち神のひとり子(イエス・キリスト)が人間となってこの世に現われたことである。こ…

根本的両義性(3)――受肉(上)

♦ 昨夜はソプラノの高橋美千子さん主催のコンサート「魂の響き 旋律の鼓動」を聴きにオペラシティに。 高橋さん、佐藤亜紀子さん(リュート・テオルボ・バロックギター)、立岩潤三さん(パーカッション)という三人の互いに異質な才能とスタイルを交錯させ…

根本的両義性(2)――聖なる遊び

♦ 真面目に仕事したり勉強したりしている人たちの生活においては、遊びというのは休養のためのものでありレクリエーションのためのものであるが、このことが示すように、「真面目」と「遊び」は対立し合い排除し合うものである。ところがホイジンガはこれと…