根本的両義性(7)――マリアの純潔(上)

 昨日の午後は小坂理江さん(歌、ハープ)と佐藤亜紀子さん(リュート)の演奏会を聴きに目白まで出かけた。
  「悦びの園に音楽ありき-15世紀の音楽の愉しみ方」
まさにこのタイトル通りの内容の、有益で楽しい演奏会であった。ここでは昨日のコンサートを想い起こしつつ私の関心事について少し述べてみることにしたい。
 プログラムの表紙にあるメッケネムの版画(上の写真)には庭の泉のそばでハープとリュートを奏でる人物が描かれているが、この図像は中世絵画の主題であった「閉ざされた庭」と関連があるとのことである。「閉ざされた庭」というのは旧約聖書の雅歌4.12に由来するが、それは聖母マリアの閉ざされた子宮、即ち穢れなき子宮を意味する。つまり、マリアの純潔を象徴する。改めて言うまでもなく、マリアは聖霊によって身ごもったのである。
  ・・・マリアは天使に言った。「どうして、そのような
  ことがありえましょうか。わたしは男の人を知りません
  のに。」 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き
  方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、
  神の子と呼ばれる。」(ルカによる福音書
 我々はこの聖霊による懐胎ということに驚くのでなければならない。驚くということは、それを狂信することでもなければ、逆に利口ぶって高をくくる態度を取ることでもない。聖霊による懐胎に驚くということは、それはとても分からないことであるということが分かることである。分からないということが分からない故に、即ち驚くことができない故に、人はカルトに陥り、あるいは逆に知的傲慢に陥るのである。真の信仰は驚きに基づく。驚きは、差別やハラスメントや暴力を生む権力欲という罪深い欲望から我々を解放するのである。
 ところで、イエスは単に「神の子」であるだけではない。イエスは聖なる「霊」の観点から見れば神の子であるが、「肉」の観点から見ればダビデの子孫から生まれたとされるのである。とすれば、マリアについても「霊」の観点と「肉」の観点の両方が必要なのではないか。更に言うと、アガペーとエロースの両方の観点が必要なのではないか。(続く)
  
  * 下の写真はエル・グレコの「受胎告知」

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