2016-10-01から1ヶ月間の記事一覧

「デカルトの循環」(a)

『省察』に付された「ソルボンヌ宛書簡」の中で、デカルトは循環論法のよく知られた例を取り上げている。 神の存在を信じなければならないというのは本当である。というのも、神が存在することは聖書において教えられているからである。また逆に、聖書を信じ…

デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ⑦

我々は実生活においてしばしば疑心暗鬼に陥るが、デカルトの懐疑は不安に陥ることによる疑いとはまったく異なるものである。では、それは故意に疑うことなのであろうか。そのように言えないこともないが、しかし「ではやっみろ」と言われて易々と実践できる…

デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ⑥

デカルトの懐疑は世界の外に出る企てであることは、果たして一般に理解されているのであろうか。例えば、いくら世界の外部ということを声高に述べても、世界の外部についてただ単に知的・観念的に論じるだけでは、世界の外部を真に理解しているとは言えない…

デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ⑤

どうして、2+3=5 とか、四角形は四つの辺を持つといった算術や数学の真理は疑い得るのに、コギト(考える私が存在するということ)は疑い得ないのか。――そのような疑義を人は呈する。しかしそれはデカルトの懐疑の基本を理解していないからである。 デカル…

デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ④

論理や数学は「詩」と対極的なものであると思っている向きは少なくないであろう。しかし本当にそうなのであろうか。 我々は自分の偏見に気づかなければならない。むしろ論理や数学は「詩」を欠くならば真に創造的ではあり得ないのではないであろうか。 とこ…