デカルトの懐疑は方法的懐疑ではない ⑦

我々は実生活においてしばしば疑心暗鬼に陥るが、デカルトの懐疑は不安に陥ることによる疑いとはまったく異なるものである。では、それは故意に疑うことなのであろうか。そのように言えないこともないが、しかし「ではやっみろ」と言われて易々と実践できるものではない。 我々はここで、自分は本当の意味で疑うことができるのかと自問してみる必要がある。

ところで、 キルケゴールは絶望について次のように語っている。 

もし絶望していないということが、ただ絶望していないというだけのことで、それ以上の意味も以下の意味も持たないならば、それこそまさしく絶望していることなのである。絶望していないということは、絶望してありうるという可能性が絶滅されたことを意味するのでなければならない。

      【「死にいたる病」(桝田啓三郎訳)】

人は誰でも絶望的な気分を味わったことがあるであろう。しかし真に絶望したことのある者はどのくらいいるのであろうか。実は、たいていの人間は「 絶望してありうるという可能性が絶滅された」状態にあるのではないであろうか。

だが、例えばフランクルの『夜と霧』を読むと分かるように、人間は真に絶望することができてはじめて絶望を越えることができる。逆に言うと、絶望し得るという可能性を絶たれている者、即ち「ただ絶望していないというだけ」という意味で絶望していない者は、まさに「絶望している」のであり、つまり絶望を越える可能性を絶たれているのである。

同様に、次のように言うことができる。我々は様々なことに疑いを抱きつつ日常生活を送っている。しかし実は、本当の意味では疑ってはいないのではないであろうか。ほとんどの人間は疑うことができるという可能性を絶たれているのではないであろうか。即ちただ疑っていないというだけという意味で疑っていないのではないであろうか。しかしそのような意味で疑っていないということは、まさに疑っているということなのであり、つまり疑いを越える可能性を絶たれているということなのである。

本当の意味で疑うことができなければ、疑いを越えること(これは疑いを壊滅させることではない)はできない。つまり信じることはできないのであり、確信を持つことはできないのである。但し、確信は懐疑と不可分である。即ち確実性は懐疑の自己犠牲において生まれるのではない。懐疑が死ねば確実性も死ぬのである。