坂口安吾:文学はつねに政治への反逆であるが、 まさにその反逆によって政治に協力するのである。・・・ (4) 

❤「人に無理強いされた憲法だと云うが、拙者は戦争はいたしません、というのはこの一条に限って全く世界一の憲法さ。戦争はキ印かバカがするものにきまっているのだ。」--「もう軍備はいらない」(1952)

戦争放棄という理想を批判することほど、容易なことはない。しかし戦争放棄などというのは単なる綺麗事であり、机上の空論に過ぎないと馬鹿にする向きは、現実というものをしっかり捉えているのであろうか。否、現実を捉えているのではなくて、むしろ現実にただ捉えられているだけなのではないか。現実を深く捉えるためには、逆説的であるが、理想を求めなければならない。理想を真剣に希求する者のみが、現実を深く捉えることができるのである。

❤「理想の女」(1947)に次のような一節がある。

「誰しも理想というものはある。オフィスだの喫茶店であらゆる人が各々の理想について語り合う。理想の人について、〔理想の〕政治について、〔理想の〕社会について。

我々の言葉はそういう時には幻術の如きもので、どんな架空なものでも言い表すことができるものだ。

ところが、文学は違う。文学の言葉は違う。文学というものには、言葉に対する怖るべき冷酷な審判官がいるので、この審判官を作者という。この審判官の鬼の目の前では、幻術はきかない。すべて、空論は拒否せられ、日頃口にする理想が真実血肉こもる信念思想でない限り、原稿紙上に足跡をとどめることを厳しく拒否されてしまうのである。」(新字新仮名に変更)〔〕内は引用者による補足。

❤それだけではない。安吾は常に理想をめざしているのであるが、しかし例えば高貴で善良な魂を書こうとして出発すると、皮肉にも、現実の低俗醜悪な魂を書き上げてしまう。安吾はそう告白する。つまり真摯に理想をめざすからこそ、現実に深く入り込むことになるのであり、また逆に、現実に深く下降するからこそ、理想の高みに上昇することになるのである。登らない者は降りることはできず、降りない者は登ることはできない。登ることは降りることであり、降りることは登ることである。本物の理想と本物の現実は、まさに反対物であることにおいて同一物なのだ。このような論理が安吾の文学を貫いていると私は見ている。

❤思想性(理想性)と戯作性(通俗性・滑稽性)に関する安吾の次の言葉を、繰り返し良く味わってみよう。

「小説にとっては、戯作性というものが必要なので、それは小説を不純ならしめるどころか、むしろ思想性を伸展させ、育てるものだ。日本には、そういう文学の正統、つまり、ロマンというものの意欲が欠けていた。つまりは本当の思想が欠けており、より高く生きようとする探求の意欲がなかったから、戯作性との合作に堪えうるだけの思想性がなく、ロマンがなかったのである。」

 

(★写真は安吾の恋人であった矢田津世子