松岡 健 『信州松本 赤ひげ先生心得帖』 ――志ある人生、そして志ある臨床

♦ 「世のため人のために志を持ち、祖父の意志を継いで良医になれ」

 

小学一年生の時に両親の離婚で辛い思いをしている自分を助けてくれた担任の教師から賜ったこの言葉こそは、「我が師の恩」である。――著者の松岡医師はそう語る。感動的な件りである。(なお、祖父とは本のタイトルにある信州松本の赤ひげ先生、松岡伊三郎医師のことである。)

 

♦志と言えば、著者は母校である伝統校、松本深志高校のことを紹介する中で、この高校には「志や原点を曲げないほうが、幸せと感じる卒業生が多い」と言う。例えば、自分の志を曲げて罪悪感に苛まれる者がいる一方、出世の道を断たれることになっても志を貫く者もいるとのことである。ともあれ、著者が次々と押し寄せる荒波に流されずに己れの原点を守り通してこられたことが、食べるために働くのではなくて、仕事を通じて人の役に立つために働くという、祖父から受け継いだ志が真正のものであることの証しである。

 

♦ところで、かつて高橋和己(1931-71)は、文学は志の表明であり、私小説であってもそのすぐれたものは根深い思想に立脚していると述べていたが、私小説についてそう言えるのであれば、個々人の人生についても、すぐれた人生は如才なく世渡りするだけの人生ではなくて、根深い志に立脚した人生であると言えるのではないか。

 

♦そしてこうした志ある人生に裏打ちされている場合にこそ、本書において詳論されている臨床は血の通った志ある臨床であり得るのではないか。即ち、医師と患者との真の人格的交流であり得るのではないか。

 

♦ここでは松岡家の家訓についても、またその家訓と今日の臨床能力試験(OSCE)との関係についても、立ち入ることはできないが、家訓の一つ、「何科でも、どんな患者さんでも、聴診をしなさい」という心得に関連することを一点だけ述べると、アンリ・ベルクソン(1859-1941)は、「精神的聴診」によって対象の魂の脈動を直接感知することをみずからの哲学の方法としたのである。