伊丹万作と戦争責任の問題 (2)

コレガ人間ナノデス

原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ

肉体ガ恐ロシク膨脹シ

男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル

オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ

爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ

「助ケテ下サイ」

ト カ細イ 静カナ言葉

コレガ コレガ人間ナノデス

人間ノ顔ナノデス

 

(中略)

 だが、今後も……。人類は戦争と戦争の谷間にみじめな生を営むのであらうか。原子爆弾の殺人光線もそれが直接彼の皮膚を灼かなければ、その意味が感覚できないのであらうか。そして、人間が人間を殺戮することに対する抗議ははたして無力に終わるのであらうか。……僕にはよくわからないのだ。ただ一つだけ、明確にわかっていることがらは、あの広島の惨劇のなかに横わる塁々たる重傷者の、そのか弱い声の、それらの声が、等しく天にむかって訴えていることが何であるかということだ。

――原民喜「戦争について」(1948)――

 

❤この「か弱い声」は我々一人一人にとって他人事ではないのだ。

我々はこれから起こるかもしれない戦争に対して責任がある。それだけではない。先の中国との戦争と太平洋戦争、そして遠い地で現在行われている戦争に対しても、間接的には責任がある。そう考えなければならない。つまり、それらに対しても何らか責任を感じなければならない。また、核抑止論は破綻したと言うだけで済ますことはできない。広島と長崎の惨劇に対して、我々一人一人が何らか責任を自覚しなければならない。

❤このような仕方で各人が倫理的自己改造を行わない限り、安定した平和がもたらされることは永久にないであろう。真の平和は政治によって作り出され得るものではないのだ。政治万能主義という信仰を捨てなければならない。これまでの戦争を見て改めて分かることは、政治の論理と人間の論理は決して相容れないものであるということである。

❤ところで、責任を感じる能力とは自省する能力である。自省する意志も能力も持たない人間は、責任を感じる能力を持たない。

前稿で触れたように、伊丹万作は「戦争責任者の問題」(1946)において、騙された者の責任を指摘したわけであるが、敗戦の年(1945年)の初頭に「戦争中止を望む」という文を綴った伊丹は騙された者ではないように思われるかもしれない。しかし彼は次のように誠実に自省している。――自分は戦争に関係のある作品を一本も書いていないが、それは確固たる反戦の信念を持ち続けていたからではなくて、たまたま病床に伏していたためにそうなったに過ぎない。もちろん自分は本質的には熱心な平和主義者であるが、今更そのようなことを言っても何の弁明にもならない。というのも、戦争が始まって以降は、馬鹿正直にも、自国が敗れることは自分の家族も死に絶えることであり、親戚や多くの貧しい同胞たちも皆一緒に死ぬことであると信じ、自国が勝つことばかりを切に望んでいたからである。――

❤世の中全体が欺瞞の猛毒に侵されていることにはっきりと気づいていた伊丹自身も、やはり或る意味で騙されていたのである。しかし彼はそのことを率直に告白しつつ己れの責任を痛感し、そのことを行動で示している。

❤国民一人一人が自省する能力と責任を感じる能力を有することが、民主主義が成立するための基本条件であり、また平和を築くための必要条件である。