高橋和巳「孤立無援の思想」(1963)を読む (6)  

♦ 数日前のことであるが、安倍元首相が山口市内での講演で、敵基地攻撃能力について「基地に限定する必要はない。向こうの中枢を攻撃することも含むべきだ」という見解を示したそうである。本当に呆れ果てる。

武器によって戦争を抑止することはできないということは様々な人が指摘しているところであると思うが、私は更にこう言いたい。政治の土俵にのみ留まる限り、戦争を暫定的に停止させることはできても、戦争を克服することは永久にできないであろう、と。高橋和巳はその「戦争論」(1964)において、「戦争は政治の破綻ではなくて、むしろ政治のむきだしの継続なのだ」と述べている。

♦ 世に言われる「政治と文学」というのは、政治が政治の場で解決することができることに対して、文学が賛同し協力することの当否という問題に過ぎないのであるが、政治と文学の関係はそのようなものではないと高橋は言う。政治や政治的思考では解決できないこと、政治の論理によって無視されあるいは抑圧されるもの、――それを文学は引き受けなければならないのであると彼は主張するのである。

♦ ところで、高橋は平和には二種類あると言う。 ①一つは、消費と太平ムードとしての平和であり、②そしてもう一つは、超克さるべき何ものかである人間性の、その超克の場としての平和である。①の平和は目的とされる平和であり、戦争の反対概念である平和であるが、②の平和は違う。それは目的ではなくて手段であり、しかも貴重な手段なのである。

♦ 今の日本はいつ戦争を起こすか分からない状態にあるが、辛うじて平和を保っている。しかしこの平和は消費と太平ムードとしての平和であってはならない。我々はこの平和を(戦場においては不可能な)人間性の超克の場――つまり〈魂の浄化〉の場――としての平和たらしめなければならない。戦争を克服するために必要なのは魂の浄化なのである。そして文学の役割について真剣に考え続けた高橋は或るところで、文学は魂の浄化の作用を担う有力な営みであると述べているのであるが、ともあれ(宗教の内部にまでも侵入してしまう)政治の論理によって魂の問題が抑圧される限り、我々は永久に戦争の脅威に晒され続けるのである。