高橋和巳「孤立無援の思想」(1963)を読む (5)

♦ 昨年末より、自民党内において憲法改正の動きが活発化しているようであるが、国の権力者には憲法を改める前に、まずは己れ自身を改めてもらいたい。公の場で躊躇なく嘘をつき、平気で人を見下し、公文書を隠蔽・改竄し、やたらに好戦的であり、にも拘らず自分の犯罪や失政が暴かれると虚偽答弁を駆使して逃げ回る、そのような権力者には、憲法についてどうのこうのと語る前に、まずは眼を逸らさずにこれまでの自分の所業と向き合い、自己正当化や自己慰撫の欲望からみずからを解放して沈思黙考してほしい。そうすることによって、自分が憲法改正を唱えるなどおこがましいにも程があることを覚ってほしいのであり、そして何よりも、権力者というものは権力者としての己れの所業に全責任を負うべきことを理解してほしいのである。何しろ、高橋和巳の言葉を借りると、国家権力というのは人間の尊厳を汚し、人を貧窮化させ、その自尊心をこっぱみじんに破壊することができるのであり、極限的には、むきだしの形態において人を殺すことができるからである。

♦ ところで、高橋はその「戦争論」(1964)において、戦争は国家的規模の確信的犯罪であることを強調している。確信性こそは戦争を戦争たらしめるものであるというわけである。ところが戦後、戦争指導者や参与者は、そしてまた国民までもが、「国家的確信犯罪を外交上の過失や民族的破廉恥罪にすりかえてしまった」。そして確信犯罪の、過失や破廉恥罪へのこうしたすりかえは、戦後の平和運動の代表的な拠点であるヒロシマ原爆死没者慰霊碑に刻まれた、

「安らかに眠って下さい。<過ち>は繰り返しまぬから」

という祈りの言葉に典型的に示されていると高橋は言う。

高橋は激しい口調で語る。「あやまち? ほんとうにそれは過失だったのか。また、いったい何があやまちなのか。アメリカが原爆を投下したことか。日本が中国を侵略したことか。中国からの撤兵をなしえず、米英蘭にたいして宣戦を布告したことか。それとも十五年戦争の発端となった満州事変の謀略であるか。・・・それらすべてが国家的確信犯罪でなくて過失だったというのか。」

♦ 高橋がこのように語ってから半世紀以上が経つが、今日では、権力者の責任をあやふやにする傾向はいっそう強まっていると思われる。それどころか、何か得体のしれないものに戦争の原因を帰する説まで出現しているようである。私は違和感を拭えない。(続く)