高橋和巳「孤立無援の思想」(1963)を読む (4)

♦ 目下の戦争をめぐって様々な情勢論が日々飛び交っているが、情勢論というのは如何にまことしやかなものに見えても、実はどれもこれも疑おうと思えば疑い得るものである。例外は原理的にあり得ない。このことは是非心得ておかなければならない。

♦ 一方、2013年12月にウクライナで反政府デモに立ち会ったことのある一人の友人が発した下記の言葉(叫び)は、個人の内面的な心情と志の吐露であり、情勢論と混同されてはならないものである。

 

「誰も路頭に迷いたくないと思うし、撃たれて死にたくもないだろう。痛いのはどの人種でも生き物でも一緒だ。」

「自分の意見を押し通す事だけに生きがいを見出すのではなく、そこに生きている人々を知る事の方が、私には大切だ。」

「自分は何のリスクも負わずに安全な場所から吠えたい。議論したい。そういう人ばかりだと思う。」

「私は、人が苦手でもありますが、人は誰でも幸せに生きる権利があると思います。残念ながら、それは安全な場所からリスクを負わずに追求する事は不可能なのではないかと思っています。言葉や理論で自分を飾り立てるのではなく、人を真剣に心配して自ら行動できる人間になりたいと思います。」

 

♦ ところで「情勢論」というのは、高橋和巳が言うには、「あくまで、世界や人類や歴史や国家のがわからの思考であり、生まれ成長し愛し死んでゆく各個人のがわからの思考ではない。」

これら〈世界や人類や歴史や国家のがわからの思考〉と、〈生まれ成長し愛し死んでゆく各個人のがわからの思考〉は、それぞれ〈政治〉と〈文学〉と言い換えることができるが、ここで指摘しなければならないのは、両者は別物であるということである。

♦ 政治というのは科学と同様に、我々が外界により良く<適応>するために用いる生活の便宜的手段である(福田恆存「一匹と九十九匹と――ひとつの反時代的考察」(1947)。即ち、政治は科学と同様に、我々に快適な生活をもたらすべきものなのである。そして高橋が言うように、政治は群れを問題にするのであって、個々人の特殊事情は問題にしない。政治とはそういうものなのであり、特に代議制多数決の原理は、個々の苦悩や哀歓を無視し抑圧することの立派な根拠となるのである。

♦ 一方、文学は情勢論を基礎とする政治と違って非情勢論的作業であり、決して外界への適応手段ではない。即ち、文学は快適な生活のためにあるのではない。(断るまでもなく、快適と幸福とは異なる。)そして文学は政治がまさに問題外とする、個人の内面的な心情や志を問題にするのである。――このように政治と文学は別物である。まずはこのことを押さえておきたい。(続く)